兵学者 由井正雪 像
1651年9月7日〜慶安4年7月23日
慶安の変〜江戸幕府転覆計画が発覚
1651年(慶安4年7月23日) - 慶安の変。兵学者・由井正雪らの幕府顛覆計画が発覚
1651年、慶安4年、江戸幕府による武家政権も3代将軍〜徳川家光の政権が終わりを迎えようとしていた頃、兵学者 由井正雪を中心とした幕府転覆計画が露見しました。
徳川家が武家政権の頂点となる流れを築いた関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て、敗れた大名は滅亡、改易となり、大名家に仕えた家臣らは浪人となり、召し抱えの機会も2代将軍〜秀忠、家光の治世下では先細りとなり、彼らにより引き起こされる犯罪が社会問題となりつつありました。
正雪は父が豊臣秀吉の出身地である尾張、中村郷の出で、その縁から大坂、天満橋での染物業を営みましたが、関ヶ原の戦いで石田三成に徴発されて戦いに参加、敗戦後は駿河国、由比(現在の静岡市清水区由比)に落ち着き、紺屋を営みました。
正雪は江戸で親類の奉公を経て楠木流軍学者となり、張孔堂なる軍学塾を開きます。幕府や大名家からの仕官の誘いを断った軍学者という触れ込みで塾生には大名の家臣、幕府に不満を持つ浪人が集う場として盛況となりました。
1651年、慶安4年4月28日、将軍 徳川家光が病没すると、次期将軍はまだ幼い嫡子、家綱となることを知ると、正雪は浪人の救済を大儀として秘めた計画を実行するため動きます。
片腕の丸橋忠弥が幕府の火薬庫を襲撃して鉄砲類の強奪、江戸城を放火して参集した老中らを一網打尽、そして将軍 家綱を人質に取るというものでした。
ところが、計画は参加者の密告により露見します。
幕府の御側、中根正盛(母方が徳川家康の重臣〜平岩親吉)の放つ密偵が既に張孔堂に潜入しており、直前で丸橋忠弥は江戸で捕縛、正雪は駿府宿で取り囲まれ自刃しました。
菩提樹院
静岡市葵区沓谷
由井正雪首塚
由井正雪首塚