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平宗盛公胴塚
滋賀県野洲市大篠原
倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦い
1180年 治承四年九月、源頼朝に次いで挙兵した源義仲(木曽義仲)は、信濃を平定した後、亡き父の本拠地、上野国 多胡荘(現在の群馬県高崎市付近)まで進出すると、旧領主の遺児の凱旋に地元豪族らが歓喜して配下に加わります。
上野国〜北関東に約二ヵ月滞陣した義仲は、関東が鎌倉に入った同族の頼朝の影響下にあることを悟ると、信濃へ戻り、越後の平家方の豪族、城 長茂を打ち破り、進路を西の北陸、越前へ向け、北陸道を押さえました。
1182年、寿永元年、義仲は北陸へ逃れてきた以仁王の遺児〜北陸宮を保護して越中国(現在の富山県)に御所(仮宮)を造営して元服式まで執り行ない、彼を錦の御旗とすることに利用します。
義仲に北陸の穀倉地帯を押さえられることを危惧した平家は平清盛の甥、通盛を大将に追討軍を編成して攻めたものの、義仲にあしらわれる様に敗れると、義仲の声望は一気に高まります。
1183年、寿永2年
これまで義仲を無位無官の田舎源氏と侮り、連敗していた平家は、富士川の戦いで源頼朝、武田信義らの軍勢に対して、水鳥の羽音を敵の夜襲と勘違いして敗走した平維盛を総大将に任じて総勢10万の大軍を動員して義仲追討に出陣します。
大飢饉の最中、兵糧も満足ではなく、士気の著しく低い軍勢は行軍の先々で強引な兵糧の徴発と兵士の動員を行います。
緒戦の越前、火打城の戦いで勝利した平家軍は後退した義仲の軍勢を追う様に加賀、越中の国境付近の倶利伽羅峠まで進発します。
数で劣る義仲は峠で夜営する平家軍に一計を仕掛けます。
徴発してきた約百頭の牛の角に松明を結びつけて火をつけ、夜営している平家の軍勢に目掛けて一斉に放ちました。
夜陰に轟音を轟かせて迫る牛の大群に飛び起きた平家軍の兵たちは義仲の大軍が押し寄せたと大混乱に陥り、逃げ惑う兵は挟み撃ちをかけた今井兼平の軍勢に討ち取られ、逃げおおせた兵の大半は峠の谷底に転落する等して死に絶える有り様で、平家の貴公子と京で持て囃されていた維盛はまたも夜陰の戦いで不覚をとり、約半数の兵を失う大敗となりしました。
加賀国 篠原の地まで逃れた平家軍でしたが、義仲は維盛らが滞陣をめぐって内輪揉めしてる隙を突き、数で劣る中でも平家軍に襲いかかり軍勢は壊滅します。
二度の大勝に義仲の軍勢は勢い付き、敗残兵を追う様に追撃し、義仲はついに北陸道を南下し、近江に到達します。
5に続きます。