家康公 終の棲家となった駿府城
(現在の駿府城公園)
ホビーの街 静岡。 はじまりは徳川家康公? 2
駿河国(主に現在の静岡県静岡市を中心とした静岡県中部地方)において、徳川家康公が領主として君臨するのは、今川氏滅亡後、この地を支配下に置いた甲斐国 武田氏を追い払った後の戦国時代後期の天正時代になってからです。
武田氏の勢いがいよいよ無くなり、西の遠江国を支配していた徳川家康公は駿河国の武田勢の駆逐を考え始めます。
1581年 天正9年、徳川家康公は遠江、駿河に点在した武田家支配下の城郭の攻略にあたり、浅間神社で戦勝を祈願し、武田放逐の後に必ず再建すべく祈願を成して社殿を焼き払い、浅間神社の背後にあった武田方の賤機山城を攻略しました。
翌年 天正10年の3月に武田氏は滅亡し、駿河の大守となった徳川家康公は、
天正14年に祈願の際に誓った約束を果たすべく、東海各国に勧進を行いますが、家康公は豊臣秀吉によって江戸へ移封とされ、一度は駿河国の領主を離れることとなります。
征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた家康公は将軍職をわずか2年で辞して三男の秀忠公に譲り、自らは大御所として駿府に戻って来ます。
隠居の身としながらも、絶大な権力を持つ家康公は駿河国の総社として浅間神社の保護を強めました。
浅間神社 楼門
1616年 元和2年4月17日、徳川家康公が75歳で生涯を閉じると、遺言に従い、2代将軍 徳川秀忠 公は遺骸を久能山に納めました。
さらに朝廷により、【東照大権現】の神号が贈られたことを受け、弟の徳川頼宣を総奉行に、江戸城、二条城、駿府城、知恩院、増上寺など、数多くの城郭や寺社を手掛けた中井大和守正清が大工棟梁となり霊廟の造営に取り掛かりました。
久能山東照宮 拝殿
その後、徳川将軍家は3代 家光公へと継承され、
1635年 寛永11年、家光公上洛の折、祖父の家康公が保護を命じていた浅間神社、社殿の修造を命じ、日光東照宮や浅草寺などを手がけ幕府御用の大工、木原木工允藤原義久を幕府の棟梁とし、華村長左衛門を地元大工方棟梁として造営が行われました。
その後、安永と天明の2度、町方の出火により浅間神社 社殿にも延焼したものの、1804年 文化元年から60年余の歳月と、当時の金額で10万両の巨費を投じて再建されたのが現在に伝わる浅間神社の社殿群です。
浅間神社 大拝殿
これらの社殿造営は徳川幕府直轄の工事として行われ、寛永年間以降 約60年に及ぶ造営に携わった大工、華村(花村)家をはじめ大工や塗師方の子孫、また全国より優れた職人が集められました。
特に彫刻には信州諏訪の立川和四郎親子三代や弟子一門が携わり、その功により立川和四郎は幕府より内匠の号を賜りました。
寛永時代より久能山東照宮や浅間神社の造営に尽力した職人は、木工・模型・漆器などの工芸品を手がけるようになり、駿河指物・駿河漆器など、その後の静岡市の特産工業へと発展する礎となりました。
模型はその後、プラモデル産業へと発展し、静岡は日本一のプラモデル産地となってゆきますが、その始まりは、徳川家康公による浅間神社の保護からスタートしたと言えると思います。
久能山東照宮に奉納されたプラモデル
プラモデルが奉納されるなんて、ホビーの街 静岡だからこそ。