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本多作左衛門重次屋敷跡推定地
浜松城
静岡県浜松市元城町 浜松城公園
家康を主君として何より大切に思う家臣は、三河武士の中では数多居るでしょうが、作左衛門重次はその筆頭格ではないでしょうか。
また、伝わる逸話も家康にまつわるものが数々あり、現代人である我々から見ると、えっ?そこまでする?大丈夫?とも思われるエピソードもあります。
良い逸話だと、
元亀3年暮れの三方ヶ原の戦い。
徳川家康が武田信玄に完敗というより、大敗した野戦です。
作左衛門重次も十名程の武田兵に囲まれ、絶対絶命の危機の中、騎馬兵の一人の首を薙いで倒し、馬を奪って帰還します。
家康は生きた心地のしない状態で辛くも浜松城へ帰還、その道中では、夏目吉信の様に主君を助けるべく身代わりとして家康を名乗り、武田兵に討たれた者も数多く出しました。
野戦で敗れ、将兵の多くを討たれた以上、家康には武田信玄に抗うには籠城して時を稼ぎ、織田信長の援軍を待つという選択肢しか考えられませんでしたが、この年は度重なる武田との戦いで領国の遠江は田畑を荒らされ、肝心の兵糧が不足していると聞かされていたため、家康は今度こそ進退窮まったとして、再び野戦の覚悟も脳裏をよぎらせましたが、作左衛門重次は、
〜心配には及びませぬ、兵糧は充分に蓄えられております〜と応え、家康を安堵させました。
家康はこの後、浜松城の門を開け、篝火を焚き、酒井忠次に太鼓を打たせ、いわゆる空城の計の策を用います。
追撃して来た武田軍は、大胆にも城門を開け放し、赤々と篝火を焚き、合図の様に打ち鳴らされる太鼓に疑心暗鬼となり、退却しました。
戦いの後、家康は作左衛門重次に浜松城の米蔵近くに屋敷を構えさせます。
屋敷のあった地は作左曲輪と呼ばれ、現在は市民憩いの公園の作左の森となっています。
3に続きます。