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日本歴史紀行

徳川家臣紀行 7 - 3 本多作左衛門重次 一筆啓上 碑


一筆啓上 碑
愛知県岡崎市赤渋町道本
六ツ美西部学区市民ホーム


作左衛門、家康次男〜秀康の誕生に奔走

鬼作左の異名の三河武士、本多作左衛門重次ですが、ただ傍若無人な荒武者ということではなく、罵られる様な諫言を受ける徳川家康も、ここぞという際に作左衛門重次を信頼していることが伺えます。

天正二年(1574年)2月、徳川家康に次男が誕生します。
後の松平秀康(結城秀康)です。

秀康(幼名 於義丸)の誕生は、甲斐武田氏との戦いが激化する中、家康が三方ヶ原の戦いで大敗した後、思わぬ信玄の病没もあって窮地を脱した後に側室に授かった子でした。

ただ、家康の手の付いたのが奥女中の娘〜於古茶(於万とも)だったことから正妻の築山殿(瀬名)が承知せず、築山殿の怒りが於古茶と子に及ぶ危機を危ぶむ家康は作左衛門重次に相談し、作左衛門重次の計らいにより、浜松の西、宇布見村の浜名湖で軍船や兵糧を取り仕切る代官、中村源左衛門正吉に預けられ、その屋敷で誕生しました。

中村家住宅
浜松市西区雄踏町

中村氏は初代中村正範が源頼朝の弟、蒲冠者〜源範頼の末裔で、大和国広瀬郡中村郷(現在の奈良県西部、北葛城郡)の生まれの武士でした。14代 正實(まさざね)の代の時、今川氏に招かれ、遠江に領地を賜りました。

ただ、中村18代当主 中村源左衛門正吉は桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、新当主 氏真の力量に見切りをつけ、家康が遠江へ進出すると早々に船で出迎えて協力し、浜名湖から軍船、兵糧を手配する等しました。

家康は作左衛門重次と連携した中村氏に当面の金子と米を託して労いました。

中村氏は後に浜名湖の北、姫街道の重要な宿場町、気賀宿の本陣を任されます。この際に作左衛門重次からの強い推薦もありました。



こうした経緯で誕生した家康の次男、於義丸が後に豊臣秀吉の養子として送り出される際、作左衛門重次は小姓として嫡子 仙千代を差し出します。



その仙千代を残し、作左衛門重次は甲斐武田氏と、事実上の雌雄を決する大戦、長篠 設楽原の戦いへと赴きます。


長篠の戦い〜一筆啓上の手紙
家康の次男、於義丸の誕生時、甲斐武田氏は当主は勝頼が継ぎ、信玄が喪を三年秘す様に命じたものの、戦いを継続しました。

家康は調略で長篠城の奥平氏と通じて味方に付け、ここから長篠の戦いへ発展します。

長篠の奥平氏が裏切ったことで武田勝頼は激怒し、奥平氏からの人質を斬って長篠城討伐へ一万五千の軍勢で出陣します。

家康は織田信長に援軍を要請、この戦いを重要視した信長も、大軍を率いて出陣しました。

結果は徳川、織田軍の勝利となり、この地方の勢力図が大きく変化します。



作左衛門重次は徳川の陣中から妻へ宛て、手紙を送りました。
文面は、

〜一筆啓上 火の用心 
   お仙泣かすな 馬肥やせ〜


ただ、お仙については、
〜一筆啓上 火の用心
   お仙痩さすな 馬肥やせ〜

ともいわれてます。
痩さすな〜当時、作左衛門の一粒種だった仙千代を妻へは、慈しみ、大切に養育せよという解釈と思われます。

4に続きます。


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