大井海軍航空隊之跡碑
静岡県牧之原市布引原
1939年 昭和14年 旧帝国海軍は、軍備拡大計画を掲げ、その中で14部隊に過ぎない海軍航空隊を75に増やすことを決め、牧之原に航空隊を設置することが挙げられました。
1940年 昭和15年、太平洋戦争が開戦する前年の3月、海軍横須賀指令部が牧之原尋常小学校に飛行場予定地の隣接する地主、村長、住民らを集め、約300ヘクタールの用地買い上げの名のもとで立ち退きを求めました。
当時、計画地は明治初めに旧江戸幕府の武士などが入植し苦労して開墾した茶園が広がり、住民らは飛行場の建設に反対。
後日、農民約100人が県知事に中止を訴えたものの、軍の計画はそのまま実行され、建設予定地内の立ち退き数は約200戸にも及びました。
大井航空隊の3年
昭和17年、開港となった大井飛行場で当初は偵察機の乗務員の教育を行っていましたが、1945年 昭和20年、太平洋戦争の戦局の悪化に伴い航空隊の訓練は、特攻隊の訓練へと変化し、ここで訓練を受けた隊員、教官の多くが特攻兵として参加し、還らぬ人となりました。
終戦後、飛行場は武装解除され、時間をかけて茶畑に戻りました。
静岡空港
静岡空港を拠点空港にしているFDA〜フジドリームエアラインズの飛行機
終戦から半世紀あまり過ぎた2009年6月4日、同じ牧之原台地の約3キロ北に静岡県民の空の翼、富士山静岡空港が開港しました。
富士山静岡空港 滑走路から見える富士山