弘法大師 空海像
静岡県藤枝市 成田山新護寺
弘法大師 空海像
京都市南区 真言宗総本山 東寺(教王護国寺)
835年承和2年3月21日、
弘法大師 空海 入定
今から1189年前のこの日、真言宗を開いた弘法大師 空海が高野山で入定しました。
空海の生涯
弘法大師 空海は、奈良時代末期の774年 宝亀5年、四国の讃岐国 多度津(現在の香川県 善通寺市)で、生まれました。
幼名は眞魚(まお)、郡司(地方役人)の父を持ち、兄二人が夭折したために、眞魚は後継ぎとして育てられますが、眞魚は早くから仏門に入ることを強く意識し、15歳の頃、長岡京の儒学者の叔父を訪ね、叔父から論語や漢籍などを学びますが、書物の学びに飽き足らず、吉野や生まれ故郷の四国で山林での修行も行いました。
四国の土佐 室戸岬の御厨人窟(みくろど)の洞窟内での修行の間、眞魚の眼前には、空と海だけが広がっていた体験から、空海を名乗ることにしたと伝わります。
804年 延暦23年、東大寺戒壇院で受戒、得度し、この年の第16次遣唐使船に乗り、唐の国へ渡りました。
805年 延暦24年5月、様々な苦難を経て空海は長安の密教寺院 青龍寺の恵果 阿闍梨を訪ねます。
恵果は密教の七祖で、皇帝からも祈祷を託され、信任された高僧で、千人を超える弟子が集まっていました。
恵果は空海を一目見ると、【~お前が来るのを待っていた。私の命は間もなく尽きようとしている、しかし教えを伝えるものが居なかった。すぐに灌頂壇に入りなさい。~】と告げます。
恵果は、空海が若い頃からの山岳修行や八十八ヵ所霊場に知られる四国での修行体験からの佇まいを一目見て、この者は既に充分な修行を積んだ僧だと見抜いたと考えられます。
恵果は、まず空海に胎蔵界と金剛界の学法灌頂を授けます。
灌頂の時、投華得仏といって、目隠しをして曼陀羅に華を2度投げて、自分に縁のある仏を知るというもので、空海が投じた華は2度とも中央の大日如来の場所に落ちました。
恵果は空海に伝法灌頂を授けて正式な後継者としました。
与えられた法名は【遍照金剛】で、これは後世、弘法大師に対して祈られる~南無大師遍照金剛~となるものです。
恵果は、空海のために膨大な経典を弟子たちに書写させ、曼陀羅や密教の法具の製作を急がせ、さらに代々の阿闍梨が受け継いできた法具を後継者として空海に託し、はやく国に帰って密教を広めるように言い残し年の暮れに入寂しました。
恵果の葬儀と顕彰の碑文を起草して青龍寺を後にした空海は、西部の越州に入り、土木技術や薬学を学び、経典の収集に務めます。そして遣唐使船に便乗する形で帰国します。
806年 大同元年、 空海は九州に上陸して帰国を果たします。
ただ、20年の留学条件を、わずか2年で帰国した空海は朝廷から問題視され、九州から出ることを禁じられてしまいます。
空海は九州、大宰府に留まる間に自身が学んだ密教の教えや師、恵果から託された法具や膨大な経典を目録に記して書き送ります。
空海の送ってきた目録を見た朝廷は驚きました。
先に帰国した最澄がもたらした教えにも密教が含まれていて、朝廷が注目し始めていたからでした。
最澄は、自らが教えを受けた天台山の密教は、空海が受け継いだものの傍系に過ぎないことを理解し、空海を早く帰京させるべきと朝廷に働きかけます。
809年大同4年、嵯峨天皇が即位すると、空海は入京を許され、およそ5年振りとなる都の土を踏むことが出来ました。
810年 大同5年、嵯峨天皇と先帝の平城上皇との間で一触即発の事態が起こります。
【薬子の変】と呼ばれるこの争いは、先帝の平城上皇が皇太子時代、皇后の母【薬子】と関係を結んだことを激怒した当時の桓武天皇が薬子を宮中から追放したことから始まり、平城天皇が即位するも、体調を崩す日々が続き、嵯峨天皇に譲位して自らは太上天皇となりました。
薬子は、体調の異変は平城の異母弟 伊予親王と母の謀反の企てだと事件を捏造して平城上皇に伝えたため、二人を幽閉すると、二人は無実を訴えて自殺してしまいます。
平城上皇と薬子は再び関係も持ち、薬子は上皇の寵愛を受けて出世するも、伊予親王の怨霊により体調が優れないと信じ、旧都の平城京に移ります。
ここから先帝の平城上皇と、譲位された嵯峨天皇は自らの信頼のおける者で朝廷を運営しようと権力争いが激化します。
平安京と平城京の二所朝廷となり、政治は混乱します。
嵯峨天皇は先手を打ち、将軍 坂上田村麻呂を派遣すると、武威を恐れた平城上皇は出家し、首謀者の薬子は服毒自殺します。
首謀者の死と上皇の出家により、嵯峨天皇は事件を終息させました。
薬子の変において空海は嵯峨天皇を支持し、国家鎮護の大祈祷を行いました。
嵯峨天皇の信任を厚くした空海は、修行道場として高野山の下賜を願い許可され、乙訓寺 別当や宮中の官人の指導などで仕え、また、故郷 讃岐国の灌漑用溜め池の満濃池の大改修工事では、唐で学んだ土木技術を生かして改修を成し遂げ、さらに真言密教の布教にも熱意を傾け、823年 弘仁14年、平安京の官寺である東寺を嵯峨天皇より賜りました。
東寺を京における真言密教の拠点とし、民衆への学問の門戸を開く宗芸種智院の開設など、あらゆる人々のために行動しました。
835年 承和2年 正月、京での宮中の後七日御修法(みしほ)や公式行事を終えた弘法大師 空海は、2月に高野山に帰った後に、食事を絶って坐禅三昧の日々を送ります。
3月15日、空海は弟子達を集め、21日に入定すると予言し、真言宗信徒が守るべき25ヶ条からなる遺告(ゆいごう)を遺しました。
身を浄めて浄衣に着替え、大日如来の定印を結び、真言を唱えながら結跏趺坐(けっかふざ)のまま、835年 承和2年、3月21日 寅の刻(午前3~5時)、弘法大師 空海は自らが開いた高野山で入定されました。
大師入定後、弟子達は灯籠堂地下の御岩窟に身を収め、地上に御廟を建立しました。
86年後の921年 延喜21年、醍醐天皇より、弘法大師の諡号(しごう)が贈られました。
大師は瞑想の状態にあり、入定から1200年近く経ちますが、現在も弟子達により給仕され続けています。