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日本歴史紀行

歴史めぐり 街物語 6 ‐ 9 静岡県 菊川市 9

加茂井堰跡





加茂井堰跡碑
静岡県菊川市潮海寺




加茂村と三浦刑部父子





牧之原台地




粟ヶ岳

加茂村(現在の静岡県菊川市)は、牧之原台地の西麓、南北に粟ヶ岳が源流の一級河川、菊川が流れる村でした。


戦国時代後期、各国の戦いが熾烈を極める中、
東海一の弓取りとして他国の武将から畏れられた駿河の大名、今川義元の武将であった三浦刑部は永禄3年(1560年)、主君の義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、三浦刑部も織田の追手から逃れながら各地を流浪し、清水の里に潜んでいた末についには駿河、今川家への帰参をやめ、次いで武士の道さえもやめる決意をしました。


やがて三浦刑部は百姓になろうと決意し、二人の息子(浅右衛門と勘右衛門)と共に加茂村に住みついたといわれています。


方々を流浪していた三浦刑部は加茂村が肥沃な大地であると信じて、ここを第二の人生の棲家とする決意で入植します。


ところが加茂村は、菊川と西方川に囲まれているものの川床が低く、菊川から水を引いて水田に利用することはおろか、その水を生活に利用することすら出来なかったのです。


そこで三浦刑部は、菊川の上流から水を引くことはできないかと考えました。

その場所は北の潮海寺村まで遡(さかの)ぼらなければなりません。

そこに堰を設け、水路を掘って加茂村まで水を引いて来ようと考えました。

ところが途中、本所村と半済村とがあり、潮海寺村と合わせて領主が違いました。

この時代、用も無く、無断で他領に入ることなど許されるものではありません。






現在の菊川




加茂井堰の設置

当時の水利権は現代よりも重要視され、戦の原因ともなることがあり、土地によっては領主などは作物に欠かせない水の確保には、見張りを置くなどました。

これらの村々は村ごとに領主が違うため、三浦刑部は狂人を装うなどして村々をふらふら歩き回ったり、凧を揚げて糸を切って追いかけたりして秘かに測量を重ねました。


時代は天正時代となり、この地を巡る戦いは熾烈を極め、今川、武田、徳川と東遠州を支配する大名が変わる中、ようやく徳川家が遠州最大の要害、高天神城に篭る武田家の軍勢を追い詰め、武田家を遠州から駆逐する流れになった天正9年(1581年)、領主から水路を掘る願いが許可されました。

このような苦労の末、領主への願いが届けられ、潮海寺村から用水路工事に着工し、13年の歳月を経た文禄3年(1594年)に ようやく宿願かなって完成を見たのです。


ところが、三浦刑部はこの喜びを味わうこともできず工事の途中に病没し亡くなってしまいました。

その後は遺児である浅右衛門と勘右衛門の兄弟が力を合わせ加茂井堰の竣工に漕ぎ着けました。

加茂村には昔からの言い伝えがあります。

【 嫁にやるなら加茂へはおよし、加茂はひばりの遊びどこ 】

こう近隣の村々では言い伝えられ、広い大地ながら、水利に乏しいことから作物の実らない不毛の地のため、決して娘を加茂村に嫁を出すなとまで言われていました。


荒地に水が導かれ、水田が拓かれ、大勢の人が集まり、嶺田三千石、加茂二千石と、この界隈で二番目に多くの米が獲れる村になったのです。






















伊成山山頂から井成神社と加茂地区の街並

村人たちは三浦刑部の没後、加茂を豊かな村にしてくれたことに感謝し、加茂村を見渡せる伊成山に祠を建立し、毎年4月の第一日曜日に盛大な祭りを400年続けています。








菊川 加茂井堰跡近く






加茂井堰跡の碑










碑文


碑文裏に記載された町長〜榛葉達男 氏
この方は、
国民民主党の現、幹事長 榛葉賀津也 参議院議員の父上です。


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