ペリー提督像
ペリー提督上陸記念碑~北米合衆国水師伯理提督上陸記念碑
神奈川県横須賀市久里浜 ペリー公園
1603年 徳川家康による江戸幕府開府以来、泰平の世にあった日本ですが、250年後の1853年 嘉永6年 6月3日、(1853年7月8日)アメリカ合衆国 東インド艦隊司令長官、マシュー・カルブレイス・ペリー提督の率いる 蒸気軍艦サスケハナ号を旗艦とした4隻からなる船隊が浦賀沖に現れました。
浦賀奉行の戸田氏栄は、旗艦サスケハナにまず、与力の中島三郎助を派遣し、ペリー提督の来航が開国の要求を記したアメリカ合衆国大統領 フィルモアの親書を将軍 徳川家慶に渡すことが目的であることを知ります。
ペリーは、応対した幕府役人の地位が低過ぎるとして親書を渡すことを拒否、船隊が浦賀沖に停泊したまま、こうしたやり取りで時間が経過する中、幕府の老中首座、阿部正弘は、将軍 徳川家慶が病で伏せている状況下で国家間の交渉は出来ないとして、親書の受け取りには応じるとして、久里浜への上陸を許可しました。
上陸したペリーは、浦賀奉行の戸田氏栄、井戸弘道と会見し、大統領親書を手渡し、幕府に対して一年後の返答を要求して久里浜を後にしました。
ペリー艦隊は、船の停泊した浦賀と測量と称して江戸沖に姿を現し、港は見物人で溢れました。
この中に江戸に剣術修行に来て間もない坂本龍馬や、松代藩の兵学者 佐久間象山、象山に師事した長州藩士の吉田松陰も含まれました。
意気揚々と引き揚げたペリー提督ですが、艦隊の出航から間もなく徳川家慶は病没。
ペリーは一年後の約束はおろか、半年足らずで再び来航し、アメリカに最恵国待遇を与える日米和親条約の締結に結びつけます。
ペリーの来航は、幕府が外圧に屈する形で開国するという劇薬となり、幕府の威信は低下し、いわゆる幕末の浪士が誕生するきっかけとなり、日本は15年後の明治維新に向かって突き進みます。
ペリーの黒船が浦賀に現れたことがあまりにも有名ですが、ペリー自身が上陸を果たしたのは、浦賀より南の久里浜になります。
久里浜の浅瀬にペリー上陸の足跡を今に伝えるペリー公園と上陸記念碑が建立されています。