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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 2月12日 慶長8年1603年 2月12日 徳川家康 征夷大将軍宣下 江戸幕府開府





江戸城跡 ( 現、皇居)

東京都千代田区千代田


豊臣秀吉が天下統一を果たし、徳川家康は豊臣政権の大老職に就き、ナンバー2の立場となり、江戸入府後も奥州一揆の鎮定に、上洛を経て文禄の役への対策で九州 肥前 名護屋へ赴くなど、政務で多忙の日々を送ります。


家康の留守を関東一円に配置した譜代家臣が他家へ睨みを効かせ、江戸城は大規模な改修も必要とせず、徳川家の経営は江戸の町の開発に勢力をかけることが出来ました。


関ヶ原の戦い

豊臣秀吉没後、徳川家康は、上洛してこない上杉家を謀反の疑いから討伐する目的で江戸に下向すると、石田三成ら豊臣政権の吏領家臣、毛利、宇喜多、島津といった西国大名が家康弾劾を大義名分に決起し、やがて関ヶ原の戦いの発端が生まれます。


江戸に戻った家康は、約一月、味方を含めた全国の諸大名に手紙を発して陣営の構築に腐心し、勢力を堅固なものとし、三成が決起したことを知ると、豊臣系大名を先発させて三成側に付いた西軍との対決を開始させます。


家康は、三万の兵を率いて東軍が滞陣する美濃赤坂に到着、翌朝には西の盆地、関ヶ原に移動し、西軍と雌雄を決する戦いで勝利しました。



征夷大将軍 宣下 江戸幕府開府

関ヶ原の戦いに勝利し、敵対勢力をほぼ一掃し、1603年 慶長8年2月12日
徳川家康は、朝廷から源氏長者と征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開き武家の最高権力者となりました。


家康は、全国の諸大名に天下普請を命じて幕府政庁の牙城として大改装にとりかかります。



江戸城天守台
大坂城を凌ぐ大天守を築いた幕府の本丸
天下普請により黒田長政が請け負いました。









堀の開削、石垣の設置、五層五重の大天守の構築と、大坂城を超える巨大城郭が生まれました。

普請の新たな縄張りで、これは、東西6キロ、南北4キロで、約18万の兵が戦った関ヶ原の地とほぼ同じ規模となります。


江戸城の普請は、将軍家初代の家康の代から三代、家光の代まで続き、その後も徳川幕府の権力の象徴として君臨し、その幕府政権は250年あまり、日本は泰平の世を謳歌し、幕末の1867年 慶応3年10月15日、15代将軍 徳川慶喜により大政奉還による政権返上、王政復古による武家政権の廃止に伴って役割りを終えると徳川家は江戸城を明治新政府に明け渡し、広大な縄張りは明治天皇の皇居(東京城)として利用されることとなります。

その後も江戸城跡は皇居として西の丸側が使われ、かつて本丸のあった東側が皇居東御苑として一般に解放されています。




富士見櫓



松の大廊下跡
忠臣蔵のきっかけ
浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつけました。



大嘗祭宮殿跡
現在の天皇陛下が御即位された令和元年に行なわれた大嘗祭の祭祀宮殿


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