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日本歴史紀行

徳川家臣紀行 4 ‐ 2 土井利勝 〜辣腕で徳川幕府創成期を支える



土井利勝 土井氏発祥地

愛知県岡崎市土井町


徳川家康が今川氏から独立を果たした以後、家康の政権下には、苦楽を共にしてきた譜代家臣で占められました。

古い譜代家臣ではない土井利昌の嫡子となった利勝が、家康から譜代家臣、もしくはそれ以上の格別の扱いを受けていたのは、利勝が伯父、水野信元の末子だったということか挙げられます。

利勝は、七歳になると古参の家老 安藤重信、青山忠成らと共に家康三男 徳川秀忠の傅り役となり、多忙な家康に代わり、父兄の役回りを演じました。


利勝 23歳の頃〜
豊臣政権下の1595年 文禄4年 7月、関白 豊臣秀次による謀反事件が表面化し、利勝は、秀次の居館、聚楽第近くの館に居た徳川秀忠が、秀次方に人質に捕られる恐れを察知しました。


この事件が表面化した頃、家康は江戸にあり、主君不在の中での緊急事態に、利勝は居並ぶ
家老達と相談して秀忠を避難させることにします。


度々、秀忠への面会を求めて訪ねて来る秀次の使いに秀忠の留守を告げて時間を稼ぎ、その間に秀吉の居る伏見城下に難なく移動させ、最悪の事態を避けました。


1603年 慶長8年、徳川家康が征夷大将軍に任じられると、利勝は一万石の加増を受けて大名となって、土井大炊頭(おおいのかみ)となります。

利勝は戦場で目立った働きは余り伝わりませんが、徳川と豊臣の最後の戦い、大坂の陣では、徳川秀忠の参謀となり、夏の陣では秀忠軍の先鋒を受け持ち、豊臣方の兵 約100名を討ち、戦後 加増を受けています。

1615年 慶長20年(元和元)
大坂の陣後、利勝は、徳川秀忠から12歳に成長した徳川家光の傅り役を命じられます。

傅り役には、同じく青山忠俊、酒井忠世がつけられます。


家光を諌める役回りの青山忠俊

家光に威儀(武士としての立ち振舞い)を示す酒井忠世


利勝は将軍職の政務全般を執り仕切る役割を演
じ、後に寛永の三雄と称される この3名の人選を、家康ももっともな人選だと同意しました。


1616年 元和2年、家康が死の床に着いた時、利勝を枕頭に呼び、葬儀を江戸 増上寺で、位牌を三河 大樹寺に納め、遺骸を駿河 久能山に西へ向けて納め、一年の後、日光に堂を建てることを言い残し、さらに将軍家に大きな障りとなるだろうと、家康六男の松平忠輝を改易することを命じました。

家康の死後、東照大権現の神号の勅許を朝廷から、さらに遺言を拡大解釈して日光山に東照宮の大名改葬を進め、圧倒的な幕府の権威を作り上げました。

利勝は幕府老中から大老となり、その後も辣腕をふるい続け、幕府初期の将軍家安泰を決定づけ、1644年 正保元年 72歳の長寿を全うしました。




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