

天武 持統 天皇陵
奈良県高市郡明日香村野口
古代 日本の国家の律令体制(刑罰法と行政法)を確立させた天武天皇は、次代の天皇で妃である持統天皇と共に被葬されました。
先代の天智天皇が没した後、皇太子の大友皇子と皇太弟の天武(大海人皇子~おおあまのおうじ)との間で皇位を巡る戦い~壬申の乱(じんしんのらん)で勝利した天武天皇は、自害した大友皇子と、皇子に近い豪族らを次々と打ち破り、絶大な権力を手中にしました。
天武天皇はこの強大な権力で、天皇を頂点とした中央集権国家として律令体制を整備していきました。
天武天皇の崩御後、妃は実子である草壁皇子を皇位に就けるべく、病弱ですぐに即位出来ず、自らが政務を執って奔走するも、皇子は病死。
ここで持統天皇が即位し、夫 天武天皇の政策を引き継ぎ、また都を飛鳥京から藤原京へと遷都
を行い、病死した草壁皇子の遺児、珂留皇子(かるのみこ)が15歳に成長したことで、皇位を自発的に譲る譲位が史上初めて行われました。
天武、持統の両天皇は、夫婦で天皇の位に就き、天武天皇の後継ぎとなった持統天皇は譲位の先例を初めて作った天皇として明日香村の陵に眠っています。