山岡鉄舟 座像
静岡市清水区村松 鉄舟寺
山岡鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とともに、幕末動乱の中で徳川家の窮地を救うべく奔走し、ついには目前となった新政府軍の江戸総城攻撃を参謀として駿府に来ていた西郷隆盛に談判して中止させることに成功しました。
1868年 慶応4年1月3日、前年の大政奉還によって天下の政権を返上した徳川家の息の根を止めるべく、薩摩藩や長州藩それに岩倉具視らを中心とした公卿を加えた倒幕派による王政復古の大号令【クーデター】によって新政府を樹立、さらに、それまで江戸での放火、略奪等の挑発を耐え続けていた幕府も開戦を決意します。 ここで京都で勃発したのが鳥羽伏見の戦いです。
幕府軍1万5千に対して新政府軍は約五千と開戦当初は3倍もの兵力差がありながらも、新政府軍は錦の御旗【にしきのみはた、きんき】を翻(ひるがえ)すと状況は一変し、幕府軍は敗れ、将軍 徳川慶喜は江戸に逃げ帰りました。
新政府軍は、鳥羽伏見の戦いから江戸に逃げた徳川慶喜を追討する名目で東征軍を興こし、江戸城総攻撃を1868年 慶応4年 3月15日と決めて軍勢は江戸を目指しました。
3月9日
そこで東征軍 参謀の西郷隆盛をたずねたのが山岡鉄舟でした。
歴史の一大転換期に勝海舟と西郷隆盛の会談がありますが、その会談の露払い役を果たしたのが山岡鉄舟でした。
後日、西郷隆盛は勝海舟に、山岡は命も名も金も要らぬ困った人だと語り、そんな人が居ないと天下の大偉業は成し遂げられないと 伝えたそうです。
明治維新後の山岡鉄舟は、西郷隆盛の懇願に折れ、明治天皇の侍従を10年務め、また旧幕臣らの救済に奔走し、さらに街道一の大親分と恐れられた清水次郎長を引き立て、彼を社会事業家に転身させる等、様々な活躍を見せました。
【 維新の締めくくりは、西郷と俺の二人であたったのだ。】
薩摩、長州、土佐、肥前 、【薩長土肥】維新の勝ち組が明治新政府の要職を跋扈する中、旧幕臣でありながら、西郷隆盛に是非ともと請われ、西郷と10年間の期限の約束で、明治天皇の侍従を務めた山岡鉄舟。
侍従を10年務めた後、皇居を去るにあたり、山岡に勲三等の叙勲が決まり、持参した外務卿の井上馨に、浴びせた言葉があの言葉です。
この前後のやり取り…
勲章を持参した外務卿 井上馨。(井上は勲一等を叙勲していた。)
山岡
返上するから持ち帰れ。
井上
俺も丁稚(でっち)の使いじゃない! このまま帰れるか!
山岡
お前さんが勲一等で、俺に勲三等を持って来るのは間違っていないか。
勅命と言っても、お前さん達が勝手に決めたことだろう。
【 維新の締めくくりは、西郷と俺の二人であたったのだ。】
俺から見れば、お前さんなんか褌(ふんどし)担ぎじゃねえか。
褌担ぎのくせに、自分より下の勲章を俺のところに持って来るなんて、とんでもねぇ間違いだ。
そう言い放って井上を帰した山岡は、最後まで叙勲を拒否。
ただ山岡の没後、勲二等旭日重光章が追勲されました。
鉄舟寺 山門
鉄舟寺 本堂
鉄舟寺 山岡鉄舟の墓
鉄舟は1888年(明治21年)7月19日、53歳で病没。鉄舟の葬儀に際し、明治天皇の命により鉄舟の亡骸を載せた葬列は かつて仕えた皇居前に留められ、明治天皇は約10分間に渡って宮殿より目送して偲ばれました。
鉄舟開基の全生庵
東京都台東区谷中
全生庵 本堂
山岡鉄舟の墓