
勝海舟 像
静岡県島田市宝来町
3月12日
1823年 3月12日(文政6年1月30日)
幕臣 勝 海舟 誕生
3月12日は幕末、江戸無血開城の立役者、勝 海舟が生まれた日になります。
1823年 文政6年、旗本 勝 小吉の長男として生まれた勝海舟は、剣術に励むも蘭学や西洋兵学も学び、ペリー来航以来 幕府が広く海防への意見を求めたところ、提出した意見書が老中首座の阿部正弘や海防掛の大久保一翁の目に止まり、世に出るきっかけとなりました。
遣米使節として咸臨丸に乗り、初の太平洋横断に成功してのアメリカ視察。
帰国後は軍艦奉行、脱藩浪士の坂本龍馬を弟子にし、神戸海軍操練所を設立する等しましたが、操練所が反幕府勢力となることを危惧した幕府により罷免され、操練所も閉鎖となり、閉職、蟄居の身となりますが、幕府は再び勝海舟を必要とします。
1868年 慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、新政府により東征軍が組織されると、老中 板倉勝静に陸軍総裁に推されます。
東征軍が進軍を続け、江戸存亡の危機が迫る中、勝海舟は山岡鉄舟を 駿府の東征軍参謀の西郷隆盛のもとに派遣し、基本条件を折り合わせ、3月15日の江戸総攻撃が目前に迫った3月13日に西郷隆盛と会談、翌日にも会談を行い江戸城を無血開城することで攻撃は回避、将軍 徳川慶喜の助命も取りつけました。
勝海舟と西郷隆盛の会談が成功した背景に、勝が閉職、蟄居の頃、西郷とは顔見知りとなっていて、勝の幕臣ながら幕府の枠にとらわれず、日本の未来を見据えた姿に敬意を抱いていたことも挙げられます。
勝は明治維新後も旧幕臣ながら要職を請われ、外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任する一方で、旧幕臣の身の振り方に心を寄せました。