本能寺跡
京都市中京区元本能寺南町
本能寺の変
誰もが知る日本史上最大のクーデターです。
長年の懸念だった甲斐 武田氏を滅ぼし、安土城に徳川家康を招いて饗応の席にあった織田信長。
中国 毛利攻めを受け持つ羽柴秀吉から援軍要請を受けた信長は、畿内に残った唯一の重臣 明智光秀に秀吉への援軍に赴くように指示します。
森蘭丸ら一部の供廻りを引き連れて本能寺へ入った信長は、招待した公卿らに収蔵していた自慢の茶器を披露、囲碁の対局を夜中まで観戦して床に入りました。
この時、信長の御前で対局していたのが日海〜法名〜本因坊算佐です。
6月1日 夜、丹波亀山城を出陣した明智光秀は、一万三千の軍勢で中国ではなく京を目指します。
6月2日 早朝、喧騒で目を覚ました信長は、本能寺を取り囲んだのが明智勢と判明すると、【~是非に及ばず~】と呟き、突入する明智勢に弓矢と槍で供廻り達と応戦するも、右肘を負傷したところで御殿奥に入り、自害しました。
御殿には火がかけられ炎上し、午前8時頃には光秀の主君討ち果たしは終了しました。