青草俳句会

草深昌子主宰の指導する句会でアミュー厚木での句会を主な活動としています。

青草6号

2019年09月25日 | 結社誌・句会報

「青草」2019年秋季(第6号)が、令和元年8月20日に発刊されました。

  ページ数を増やして、「私の好きな季語」、「俳句の風景」など楽しい記事も掲載いたしました。

  その一部をご紹介いたします。

 

 

青山抄(6)   草深昌子

春寒や汀のここは松林

あれは鷹いやあれは鳶耕せり

どこかしら金の光りの落し角

雪の解け具合を隣近所かな

はこべらや波郷旧居に人の住み

永き日の消え入りさうな鳶のこゑ

山笑ふ鳶の一つがまた真上 

はばからず揺れて鴉の巣でありぬ

べた塗りの明神さまの長閑なり

刻刻の金の振子の春惜しむ

この雨に着込みて春も逝きにけり

陶白く蠅虎の這うてをり

標本の蝶々八十八夜かな

ばら守の背中ぢゆうなる薔薇の影

川の底見えて鵜のゆく薄暑かな

睡蓮のその一寸の首たしか

崖の蟻わが手の甲にのりうつり

夏芝の高きところの禿げてあり

今し日を雲去る大山蓮華かな

君が墓キリンビールで濡らしけり

 

草往来      草深昌子

俳句は「座の文学」です。俳句の上達を目指すなら、句会に出るのが一番です。俳句を日記につけて句会に出ない方もおられます。私も若いころは内緒で作っていましたが、それでは俳句になりません。俳句は句会に出して、お仲間の誰彼に「これ良し!」と認めていただいて、初めて真の一句となるのです。一句作れたらもう俳人です。

俳句は一人では出来ません。読み手が想像力を働かせてくださって一句完成です。俳句は世界一短い詩型ですから、多くは言えないものですが、言わなくてもわかってもらえるのが俳句です。だからこそ俳句における鑑賞ほど大事なものはないのです。

私は、句会はひと様の俳句に敬意を表する場であるということを肝に銘じています。自分の俳句の出来不出来より、佳き俳句に出会った時の喜びは譬えようもありません。

俳句の実作と鑑賞は車の両輪です。実作が出来ても鑑賞が出来なければ片びっこで車は前に進みません。鑑賞、つまり選句ですが、選句が確かになりますといつしか俳句も上達しています。

私は昔も今も、心から尊敬できる俳人と句会をご一緒させていただける幸せをひしひしと感じています。選句力を磨くように心掛けてはおりますものの、選句ほど悩ましいものはありません。

ましてや「青草」の選者として向き合うときには、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、全身全霊を尽くしたいと願っています。自分が採った句は責任をもって褒めたいと思うからです。

作家又吉直樹が「悪意をもって読めば、その本をつまらなくするなんて簡単、本に対して協力的におもしろく読める方が楽しめる」とよき読書法を言いましたが、かの俳人原石鼎もまたこう述べました。

「他人の句を見る場合、好意を持って読むと、句の心持が読む者の心にたやすく入ってくる。好意を持たない他人の句を読むときは、その句の良いところが容易に入ってこない。良いところを見つけ出してほめる、そうすることによって自分の句境が進んでいくと思う」

石鼎ならぬ我が俳句の句境はなかなか深みに達しませんが、それでも、「青草」の選句を通して、鍛えられていることは間違いありません。

 

秀句集    草深昌子

読みさしに栞挟むや夜半の月       栗田白雲

白雲さんにお会いすると、何時も手に本を持っておられる。歴史考察や時代小説がお好きのようである。そんな読書家の日常がふと垣間見られるさりげない句であるが、「夜半の月」には抑えの効いた嗜みのほどがよく窺われる。 

澄みきった月の明かりは、そのまま物語に差し込んでいるようであり、その余情もまた作者の心中に美しく漂っていることであろう。総じて白雲俳句には独白のような側面があるが、これが変転する自然のありようと地続きになっているところに独得の味わいが醸し出される。

 

いつまでも風の冷たく蝌蚪の紐      山森小径

小径さんは俳句の出発点から巧い句を作られたから、「俳句的な俳句はよくない」、「もっと無意味なのがよい」等と、徹底して写生の句を要求してきたように思う。それは私自身に言い聞かせる言葉でもあったから、時には厳し過ぎたのではないかと反省しているが、小径さんは黙々と学ばれ、今やその素直な心の躍動のまま作句されていて、共鳴するばかりである。掲句は、蝌蚪の紐の見られる頃の気象状況として、大いに頷かされるものであるが、その心底には微小なる命への愛惜が潜んでいる。

 

雨傘を朝日に広げ春隣          柴田博祥

夕べの雨も止んで、その雫と共に眩しいばかりの朝日のきらめきが見えるようである。春遠からじの思いが嘘偽りなく読者に伝わってくる。それは「干して」ではなく、「広げ」という具体的な表現が決まっているからである。

 

年用意畑から松を切り出しぬ       石原虹子

 年末になって新しい年を迎えるための用意はさまざまあるが、これは「松迎え」というものであろう、我が畑から門松用の松を切り出してくるというのである。物を買って事済ますという私などから見ると何と素晴らしい松飾りであろうかと思う。

年年歳歳守って来られた風習かも知れない、その心ばえには既に佳き年の巡りが約束されているようである。

 

冬木立単車一台通りけり         中澤翔風

人口三千人足らずという過疎の清川村に吟行した折の句である。その日は、すっかり葉を落とした裸木がひそやかに立ち並んでいた。一台の単車が通り抜けた、ただそれだけで、冬木立が明らかに立ち上がってくるものである。 

寒々とした景に、一瞬の光りが当たったかと思うと、また元通りの静けさに戻るのである。

 

胸に抱く児の手が先に破魔矢受く      伊藤波

 「胸」という言葉は一句を甘くする作用があって、なかなか使えないものであるが、この句の胸ほどほのぼのと一心同体の胸に染入るものはないように思われる。

魔除けの羽根は、もう赤ん坊に乗り移ったかのように真っ白に輝いている。めでたい句である。

 

乗り継いで池上線や春浅し       奥山きよ子

一読、池上線が効いていて、「春は名のみの風の寒さ」が実感されるものである。池上線と言えば私には池上本門寺裏手の梅見を想像するからかも知れないが、池上線を知らなくても「池上」という字面、「イケガミセン」という語感も、季題に通ってくるものがあるだろう。ちなみに、池上線は五反田と蒲田を結ぶ電鉄である。

 

花南瓜窓の光の黄色かな       東小薗まさ一

 南瓜の花は暑さの中に次々と地を這って咲く大きな鮮黄色の花である。そのむんむんたる生気が窓いっぱいに迫ってくるような輝かしさに満ちている。印象鮮明なる明るさを二重写しに捉えたところ出色の出来である。

 

草餅を頬張る吾子や手に二つ     長谷川美知江

何とはつらつたるお子さんであろうか。頬張ったり、手に握ったりという、愛らしくも欲張った仕草が草餅のふくらみや粘りを艶やかに感じさせて、野趣のありようがいかにも懐かしい。

 

小春日や角をまがれば風頬に       芳賀秀弥

 何の衒いもなく小春日和の気持ちよさが感受された。

感じたもの、見たものをありのまま言葉に置き換えるのは簡単なようで難しいものである。倦まずたゆまずこつこつと作句される秀弥さんの物静かなる態度があってこその一句であろう。純粋無垢の風は読者にも心地がいい。

 

雛飾り寝床は隅になりにけり       渡邊清枝

 お座敷に所狭しと飾られた豪華な雛壇が想像される。

内裏雛、官女雛、五人囃子、矢大臣、そして雛の調度や花の飾りや菱餅等々、桃の節句の明るさや喜びが、控えめにも、「寝床は隅になりにけり」に言い尽くされている。

 

  行く雲の深閑としてさくら餅      中野はつ江

流れ行く雲のダイナミックなありようが、いつしか深閑たるものとなっていったのである。「深閑として」は観念ではない。深閑としか言いようのなかった直感は、桜餅を際立たせるのに十分である。

 

  日脚伸ぶボールは高く蹴り上げて     上野春香

 何のはからないもない一句の大らかさ。ボールを高く蹴

り上げたその瞬間の日差しがきらめいている。ボールならずとも自然を、とりわけ季節をキャッチすることの自然体が俳句のよろしさである。

 

秋彼岸花買ふ人の静かなり        木下野風

春の彼岸とは違った秋彼岸の頃の季節感が滲み出ている。供花を求めて花屋に立ち寄ったところ、人々のその静かなる佇まいに心打たれたのであろう。野風さんの表情にもふと秋草の風情が映し出されているようである。

 

その他、注目句をあげます。

五人降り一人乗るバス菊日和     佐藤健成

耕にちよつと顔出す蚯蚓かな     菊竹典祥

部屋中に蒲団とりどり大家族     間草 蛙

初富士や峠に古き道しるべ      坂田金太郎

鍬始老いの手際のよかりけり     二村結季

お出掛けはちよつとお江戸へ春隣   古舘千世

小田原の蒲鉾弁当花筵        松尾まつを

ベランダに吹くや夕日の石鹸玉    熊倉和茶

割烹着姿の母や石鹸玉        河野きなこ

子を叱る声の明るき去年今年     平野 翠

硬き葉の帽子に落つる留守詣     日下しょう子

初電車急勾配を登りけり       鈴木一父

蔵出しの鍬また鎌や下萌ゆる     末澤みわ

山桜小路出でくる郵便夫       森田ちとせ

鯖みりんふつくら焼けてクリスマス  川井さとみ

はうたうや葱たつぷりと加へたる   石堂光子

山藤や絡まる蔓の中に垂れ      泉 いづ

海原や手に触るる如天の川      森川三花

山道に洋館があり秋の蜂       黒田珠水

掃初や風に飛ばされ菓子袋      市川わこ

路地裏の土の温もり猫の恋      冨沢詠司

土器に米艶やかや神の留守      米林ひろ 

山笑ふ信玄餅にひとくさり      湯川桂香

半袖の子らも混りて彼岸寺      加藤洋洋

軒高く薪積まれをり村の冬      堀川一枝

居間に糞落してゆくやつばくらめ   新井芙美

ゴンドラの下や色なき冬木立     田中朝子

陽炎の砂利道を行く一輪車      小泉いずみ

落椿蕊の高さに汚れなし       神﨑ひで子

北育ち箒で退かす春の雪       加藤かづ乃

鶴首の瓶に一枝白き梅        小幡月子

縄をなふ父のうしろの焚火かな    中 園子

薬医門くぐると一つ棗の実      田野草子

黒揚羽縁台近く飛んでをり      福山玉蓮

柚子落ちて匂ひの上がる駐車場    漆谷たから

大雪の便りを聞くも春隣       丸山さんぽ

花韮や通過電車のつむじ風      松井あき子

運動会男先生ひた走る        大本華女

春立つや丘を下れば印刷所      佐藤昌緒

 

《 編集後記 》

 「青草」も結成から十年を過ぎて会員の句作の力量もぐんと上がり、ことにこの二,三年のレベルの伸びには目を見張るものがあります。結社誌を編集していて、その足跡の確かさを感じています。

 青草の本拠地厚木市は神奈川県の中央に位置し丹沢山塊の東の端に聳える名峰大山の山麓にあり朝な夕なにその勇姿を眺めています。

大山は阿夫利山と呼ばれ、江戸時代は関八州の雨乞信仰の山で大山詣での宿場町としても栄えた街でした。

 山麓を流れる大河相模川の支流が市内を四本も流れて夏の鮎釣りと鮎まつりの大花火大会は小田急本厚木駅が人で埋まります。秋は黄金に輝く稲穂には稲雀が群がり、愛甲梨園では梨狩が楽しめます。冬には河川に多くの水鳥たち渡来して河川敷の散策には俳句ネタがてんこ盛りです。

 草深昌子主宰の指導する「写生俳句」と、この四季折々の自然が織りなす絶妙のコンビネーションが更なる高みに向けて羽ばたこうとする句会仲間の姿が眩しく輝きます。 (金太郎)

「芳草集」「青草集」に続く

 


青草6号(芳草集・青草集)

2019年09月25日 | 結社誌・句会報

 

芳草集(草深昌子選)

冬蝶の力尽きたる水面かな  栗田白雲

読みさしに栞挟むや夜半の月

歳晩や胸の種火を確かめて

億万の生抱きしめて山眠る

初春や御堂に白き千羽鶴

ものの芽や土一寸の気配あり

湯煙りと思はば屋根の霞かな

 

初刷の郵便受けを溢れたる   山森小径

人日や紅茶に落とすウイスキー

春寒や薄き雲間にうすき月

奥津城の裏をのぼるや鳥雲に

いつまでも風の冷たく蝌蚪の紐

切株にむつちり山の茸かな

冬紅葉菩薩は小指すこし曲げ

 

五人降り一人乗るバス菊日和  佐藤健成

冬薔薇や煉瓦造りのレストラン

熱燗や弱き自分と対ひ合ひ

口論に勝つて寝付けぬ年の暮

きらきらと足裏白く海女潜る

遊ぼうとみすゞの詩よ春の海

無人駅また無人駅山笑ふ

 

雨傘を朝日に広げ春隣      柴田博祥

目を凝らしやがて霞を見てをりぬ

真夜中に返すメールや猫の恋

遠ざかる飛行機の音春の虹

初時雨立読みしては人を待ち

思ふことつぎつぎとあり初氷

終電を逃し酔歩や猫の恋

 

青草集(草深昌子選)

一巡し手の平ほどの熊手買ふ  中澤翔風

冬木立単車一台通りけり

春寒や海賊船の汽笛鳴る

受験の子アメリカ橋を渡りけり

多喜二忌や不在札立つ駐在所

猫柳堰のしぶきを被りけり

戸を叩く午前零時や春一番

 

村一つ光の先の山眠る     伊藤波

胸に抱く児の手が先に破魔矢受く

陸奥や煮凝り熱き飯に乗せ

枕辺に置かる聖書や花の宿

雨二日樹皮の湿りや落椿

筆絶ちて絵の具の硬き目借時

銀にかげろふ鳥や神田川

 

羽音たて部屋飛び廻る冬の蠅  河野きなこ

乗初や秘仏の像にまつしぐら

たなびける霞に紛ふ野焼かな

寒明や芝高輪の町工場

手に馴染む高砂雛の箒かな

春泥や髪刈上げて街中に

割烹着姿の母や石鹸玉

 

手を挙げてバスを停めたる山の秋  奥山きよ子

ブロッコリーその葉日向に勇ましき

冬菊や蜂の音なく纏はるる

年越しや夫と「東京暮色」見て

石垣の吾が影とゆく七日かな

乗り継いで池上線や春浅し

雪催土なき道を歩みけり

 

春立ちて鵯ども騒ぐひもすがら  東小薗まさ一

目白来る不眠の鬱を払ひのけ

花南瓜窓の光の黄色かな

無口の日いつもありけり冬牡丹

冬帽子水路の風に取られけり

良き夢を忘れぬやうに布団干す

一人居のひとり楽しき冬籠

 

窓を打つ木の葉一枚冬初め  平野翠

池の面に同じ輪を描く冬の雨

子を叱る声の明るき去年今年

白鷺の正月を飛ぶ白さかな

いななきに日差しやはらぐ四方の春

芭蕉丸てふ焼き牡蠣の船に乗る

安達太良の山の白さや野火走る

 

硬き葉の帽子に落つる留守詣   日下しょう子

手を当てて懐炉の効き目確かむる

寒柝の三つ目またも鈍きかな

歳時記の電池換へたる七日かな

剪定や一塊に実の落ちて

木の芽張る狸の糞のひとところ

常盤木の間に間に城の桜かな

(カット 黒田珠水)


『ウエップ俳句通信』(105号)より

2018年09月22日 | 結社誌・句会報

『ウエップ俳句通信』(105号)に草深昌子主宰の作品が掲載されました。


    

  

      白        草深昌子 

     

   若葉して戸毎に違ふ壁の色   

   今し行く小倉遊亀かも白日傘

   浜あれば崖ある南風吹きにけり 

   薔薇守の鎌の大いに曲りたる 

   毛虫を見馬追を見る極楽寺

   芒種けふ路傍の草の丈高く

   梅雨さ中まれに蝶々屋根を越え

   わら屋根の藁のすさびのほととぎす

   絨毯を部屋に廊下にさみだるる

   白雲のよく飛ぶところ通し鴨

   梅雨に咲く花の色かやこつてりと

   小諸なる古城のほとりサングラス

   どれどれと寄れば目高の目の真白

   蛇の衣脱ぐや高濱虚子の前

   大木のそよぎもあらぬうすごろも

   帰省子のそつくりかへる畳かな

   なにがなし触つて枇杷の土用の芽

   釣堀やひもすがらなる風の音

   落し文解きどころのなかりけり

   ひるがほの咲いてこの橋覚えある

           (3人競詠20句より) 


青草4号(秋号)発刊される

2018年08月21日 | 結社誌・句会報

皆さん待望の『青草』2018年秋季・第4号が発刊されました。
「より多くの人に誌面に登場して貰いたい」との草深昌子主宰の編集方針が反映されて、一段と読み応えのある紙面となりました。



青草往来      草深昌子 

 大峯あきら先生が急逝され、四月の吉野吟行は淋しかった。桜は早くも散って、全山緑の中を、水分神社まで下っていくと、ふっと冷たい夕風がよぎった。その時、透き通った一羽の鳥の声が森閑と鳴り響いた。ツキ、ヒ―、ホシ、ツキ、ヒーホシ・・鵤(いかる)であった。
「月、日、星」とは宇宙そのものではないか。「宇宙はあそこでなく、ここである」、そう語られた通り、独自の宇宙性俳句を確立された大峯先生のお声ではないか。

      鵤鳴くほどに大峯あきら恋ふ           昌子          

 茫然自失の日々の中にも、「青草」の句会は、いよいよ熱を帯び、笑いの渦に包まれていった。うかうかしてはおれない、いつの間にか気を引き締めなおしている私を発見して嬉しかった。今更に、俳句という文芸は、心身を鍛えてもらえるものだと気付かされている。
 ふと、ひと昔も前のことを思い出した。プロ野球の王貞治氏は、奥様に先立たれ、重病を体験されながら、監督となって尚、ユニホームを脱がずに着続けられていた。 その理由を問われたとき、「ときめきかな。グランドという勝負の場にいるとき感じるときめき。この齢になっても一投一打にドキドキする。生きている証みたいなものを強く感じるのです」と答えられていた。 
 
野球のグランドを「句会」に置き換えると、そのときめきがよくわかる。一句一句にドキドキするのも俳句によく似ている。俳句を通して人に会い、物に会い、言葉に出会う、そのさまざまの何と有難いことだろう。

 大峯先生は、「死ぬ」という言葉すら超えた「存在」というものを思想的にも宗教的にも文学的にも教えてくださった。それらを、これから先、老いるという新しい体験のなかで、私自身の言葉としてどう表現してゆけるだろうか。

とにもかくにも俳人は、最後の最後まで真剣に、真っ正直に生きよと身をもって示してくださったのであった。

 

青山抄(4)              草深昌子

 雲去れば雲来る望の夜なりけり

 口に出て南無阿弥陀仏けふの月

 常磐木の丈高ければ枯木また

 凩やあはれむとなく人の杖

 夜もすがら書きつづきたる霜の文

 絨毯を踏んでグランドピアノまで

 朽木とも枯木ともなく巨いなる

 往き来して雪の廊下やただ一人

 ひんがしに傾く木々の芽吹きかな

 踏青のいつしか野毛といふあたり  

 ふと寒くふとあたたかや遅ざくら

 大仏の肩に耳つく春の雷

 一軒に遠き一軒ミモザ咲く

 墓地のある景色かはらぬ紫木蓮   

 永き日の丸太担いで来たりけり 

 その木ごとゆらりゆらりと剪定す  

 前に川うしろに線路柏餅

 引戸ひく音の八十八夜かな

 津に住んで津守といへる棕櫚の花

 そこらぢゆう煤けて兜飾りけり

 

芳草集(草深昌子選)  坂田金太郎(巻頭)

 いつになく喋りすぎたる蝶の昼

 春の風人来て無沙汰わびにけり

 次の世も男でいいか蝉の殻

 此処よりは駿河の国や式部の実

 ちりちりと明くる野面の霜囲

 映画館出口しぐれてをりにけり

 水際の砂の白さや日脚伸ぶ 

 

青草集(草深昌子選)  山森小径(巻頭)

 黒焦げの団子を分かつどんどかな

 大寒の暮れて雨音激しかり

 蝋梅の開ききらぬを啄ばめり

 春立つや鳴子こけしの花模様

 大声で何か指さす磯遊び

 八角の観音堂や榠樝の実 

 冬晴や松の合間を船のゆく    


(更新:坂田金太郎 2018/08/21) 


「青草」第3号(2018年春季号)を読む

2018年08月12日 | 結社誌・句会報

俳句結社誌『澤』の平成30年7月号 通巻220号の誌面『窓:俳句結社誌を読む 高橋博子』で
「青草」第3号2018年春季号が紹介されました。

『窓:俳句結社誌を読む 高橋博子』より(全文)

厚木市の生涯学習の「俳句入門講座」より発足した。
 草深昌子主宰は、〈「青草」の俳句は初めて俳句を作る喜びに端を発したものです。これからも飾らない私、子供の心を持った私の句でありたいと願っています〉と冒頭に記された。

  めいめいのことして一家爽やかに   草深昌子
  晴れがましすぎはしないか干蒲団   同

  一句目、ある日曜日。自分の勉強や趣味に一家それぞれ充実した時を過ごしておられる。背中に暖かい視線を感じながら干渉しないお互い。気持ちのよい清々しい風が吹き渡る。
 二句目、集合住宅のベランダの風景であろう。一家全員の蒲団がぎっしり干され午前の日を浴びている。夜には子供たちは陽光を含みふっくらとした蒲団にぐっすりと眠るのだろう。健康的な生活感は面映ゆいほど。「晴れがましすぎはしないか」の措辞が印象的。洒脱。

   青蜜柑太る力に揺れてをり      菊竹典祥

 青蜜柑のつやつやとした表皮。段々と実を太らせる様子は生命力豊かだ。風に揺れる蜜柑をまるでみりみりと実る力に揺れているようだと描かれた。実りを実感し喜んでいる。逞しい。

  独り居の指差し確認蚯蚓鳴く     古舘千世

 独り住まいでは、夜休む前、点検、戸締り、消灯と確認事項が多々あろう。ひとつひとつ指差し確認をされている。
「蚯蚓鳴く」は秋の夜、土の方からジーとしたような音が聴こえること。本当は螻蛄の声らしいがこれを発音器官のない蚯蚓の鳴き声としたのだ。
空想的なロマン溢れる季語により、現実生活を笑いとばし楽しんでおられる様子が伝わる。

   夕立の過ぎたるあとの匂ひかな    熊倉和茶

 夕立は夏の蒸し暑い午後、積乱雲が降らせる雨。急に大粒な雨が降り出す。すぐに雨は上がりその後すっかり涼しくなる。街では街路樹の木々、アスフアルト、建物が水に洗われ別世界のよう。山では木々や草が匂い立つ。雨が降る前と気配が一変する。その転換を語られた。

   尻振つて横々歩く鴉の子       石原虹子

 市街地では、鴉は疎まれる身近な鳥だ。だが親子の情愛深く番で子育てをするという。知能が高く社会性もある。
鴉の子は大柄な割には声や仕草が幼く人懐っこい。
掲句では丸い尻を振って跳ねるように横歩きを繰り返す様を楽しげに描いた。臨場感溢れる。親鳥も上空で見守っているのかもしれない。

  鱧さうめんせつかくやから竹の箸   柴田博祥

 鱧は六月下旬からの一ケ月あまりが旬とされ、関西で賞味される。鱧そうめんを検索してみた。鱧そうめんは鱧のすり身を心太状に突き出した物。鴨川の床や貴船の川床料理に出てくるという。ふむふむ、さっぱりと誠に美味しそうだ。
京言葉がはんなりと効果的。竹の箸を添え完璧に涼しそうだ。

  足首のまぶしきことよ夏落葉    川井さとみ

 少女たちは薄着となり、しなやかな足首が良く目立つ。
溌剌とした若さがまぶしく映える。初夏、常緑樹は新しい葉ができると徐々に葉を落としてゆく。
夏落葉は秋の落葉と違い色鮮やかではないが、樹木の成長の証である。

  揚羽蝶ホースの水を潜りけり     新井芙美

 大形で色鮮やかな揚羽蝶。掲句は夏の日差しを受けホースの水を掻い潜っていく揚羽蝶を描かれた。
撒かれる水を潜り、身を翻し、しなやかに飛び抜けて行く揚羽蝶。日差しの中ホースの水はきらきらと輝く。

  ののののとこごみは芽吹く太古から  泉 いづ

 こごみはわらびやぜんまいと並ぶ春を告げる山菜。美味しく食べられる草蘇鉄の若芽だ。形は平仮名の「の」の字状でユーモラスだ。化石の中にも存在したというシダ植物の仲間。太古から人の身近にあった植物なのだ。
掲句はまず、上五の「ののののと」の「の」の連続に目を奪われて楽しい。さらに句中の半分をオ母音が占め軽やかだ。内容豊かに目にも耳にも新鮮。覚えやすく、いつの間にか口遊んでしまう。


青草中央句会(三川公園吟行)

2018年05月08日 | 結社誌・句会報

4月26日、青草中央句会の「春の吟行句会」が「アミューあつぎ」、「あゆみ橋」、「県立相模三川公園」を徒歩で往復するという形で実施されました。

当日は、夏を思わせる太陽が照りつけ、季節も完全に初夏という陽気の中、30人を越える会員が汗かきながら歩き、思い思いに昼食を楽しみながら、春から夏への風と光の変化を詠み込んだ秀句が出揃いました。

 軽暖の歩いてゆくやあゆみ橋   草深昌子

 木々深く草々広く夏は来ぬ

 川縁の砂利敷く道の薄暑かな

 

 

相模三川公園は相模川、中津川、小鮎川の三つの川が合流する上流に位置し、後ろには東丹沢連山が聳えています。

(画像はクリックすると拡大されます)

 

草深昌子主宰選賞
 地境の石の十字や木下闇      小径
 二三歩を離れて夫婦棕櫚の花    ちとせ
 川沿ひに細き道あり毛虫這ふ    千世
 
松尾まつを選賞
 水草生ふ艀くづれの渡船跡     まさ一
 舗装路を破る命や竹の秋      草子
 鳩川と言ふ名の小川風光る     博祥

草深昌子主宰入選
 騒音を遠く隔てり夏木立      しょう子
 相模野や三川交はり緑なり     まつを
 古草の中より蜂や土手の道     昌緒
 空割つて川を二つにつばくらめ   桂香
 さくら橋かかる鳩川遠青嶺      小径
 道々に筆を走らす青葉かな     白雲
 初夏や女子高校生の高笑ひ      翔風
 トラックの休み処や茅花の穂     きなこ
 せせらぎのやがて大川棕櫚の花    結季
 遠足の子等の帽子は空の色      
 薫風や飛行機雲の良く伸びて     健成
 砂利道を抜けて軽ろしや夏木蔭   一父
 レガッタの櫂の雫や数珠となり   まつを
 花虻とにらめつこして真昼かな    きよ子
 橋の辺や淡く紅さすさくらんぼ   光子
 河原にダンプ七台夏の雲       一父
 阿夫利嶺に真白き雲や夏兆す      桂香
 車椅子進む横には姫女菀      秀弥
 河原から見ゆる海老名の街薄暑   翔風
 甲高き鳥の声して踊子草      光子
 

            (有鹿神社にて)

(記事・写真:坂田金太郎 2018/5/8)


青草句会と青草関連句会の紹介

2018年03月25日 | 結社誌・句会報

青草句会は草深昌子主宰の指導で俳句の基礎を学び、更なる上達に励んでいます。俳句に興味のある方、ちょっと作ってみたい方の見学、体験をお待ちしています。 飛び入り歓迎ですが、前もって幹事にご連絡くださればありがたいです。

〈「草深昌子のページ」 https://masakokusa.exblog.jp/

名称 実施日 会場 時間 幹事 連絡先
〈青草句会〉        
木の実 第1金曜日 アミュー厚木 9:45~13:00 間 草蛙 046-242-8499    (代表)
花野会 第2金曜日 厚木シティプラザ5階 9:45~13:00 二村結季  
草句の会 第3火曜日 アミュー厚木 9:45~13:00 日下しょう子  
青葡萄 第4火曜日 アミュー厚木 9:45~13:00 中 園子  
草原 第4木曜日 アミュー厚木 9:45~13:00 鈴木一父  
〈青草関連句会〉        
鳶尾草 第3木曜日 鳶尾ギャラリー 13:00~16:00 間 草蛙 046-242-8499
松風 第4水曜日 アミュー厚木  13:30~15:00 松尾まつを 046-241-9810
カルチャー 第3金曜日 イオン厚木教室7階 13:00~15:00 草深昌子 090-2485-7871
           
青草中央句会 2018年4月26日 吟行先;県立相模三川公園(集合:厚木アミュー1階エレベーター前9:30)          句会場;アミュー厚木610号室(当日 13:30投句締切(3句出句) 幹事;松尾まつを(046-241-9810
(どなたでも参加できます。体験参加も歓迎です(詳しくは句会幹事にお問い合わせ下さい) )        
         

「青草」第三号 2018年春季号発刊 

2018年03月08日 | 結社誌・句会報

『青草』第三号 2018年春季号が発行されました。

 

青草往来  草深昌子

 厚木市生涯学習の「俳句入門講座」を担当して以来、足掛け十年の歳月が流れました。ある年、〈夏座敷大きな闇の中にあり  虹子〉という句に出会って驚かされました。
 このたび、虹子さんの「巻頭によせて」を読んで、その時の共鳴が昨日のことのように思い出されます。まさに大きな闇の中で、子供なりに物を感じる心を培っておられたということでしょう。その心はすでに宇宙の自然の中にどっぷり浸かっておられたのでした。作者自身もそれと知らずに詠いあげてはじめて、嘘偽りのない私が出ていることにはっとされたに違いありません。
 私の初学の先生が「俳句は根生いを一生引きずりますね」とつぶやかれたことを覚えています。生まれ育ったところを離れても、いつしか懐かしい地に還っていくような温もり、天性の包み隠せぬことを、自身の俳句からも実感するようになってきました。
 「去来抄」に、「句においては、身上を出づべからず」という言葉があります。
 つまり、俳句においては身の上を偽ってはならない、あくまでも自分の本当のこと、自分の体験に基づくべきだというのです。まこと、真実ほど強いものはありません。
 「青草」の俳句は、初めて俳句を作る喜びに端を発したものです。
 これからも飾らない私、子供のこころを持った私の句でありたいと願っています。
 そうは言っても、ありのままに詠うということは、至難の業です。
 日々呻吟するばかりですが、ある時ふと、どこからか言葉が下りてきてピタッと決まることがあります。無心になったとき、大自然から言葉を賜るのです。
 そんな幸せの瞬間はだれにでもやってきます、ただただ一心に作り続けるほかはありません。その苦労こそが、俳句の醍醐味ではないでしょうか。

 

青山抄(3) 草深昌子

    秋風や長寿まんぢゅう二た色に

    紅葉して仏の貌の我のやう

    錠前に錆をつくしてつづれさせ

    墓打つて弾んで苔に木の実落つ

    主亡き襖の桜模様かな

    めいめいのことして一家爽やかに

    今朝冬の水無川の水綺麗

    神発ちて吊橋高くなほ長く

    引つ掛かるところかまはず木の葉かな

    雨を来て石鼎庵の白障子

    ここに柚子向かうに蜜柑人の庭

    町を行くやうに基地行く冬うらら

    一茶忌のもの食う列につきにけり

    踏みごたへあるは櫟の落葉かな

    マスクしてかしこさうまたやさしさう

    冬麗の女は背中見せにけり

    栓抜いて木の葉時雨にビールかな

    大山の晴れてマントの黒きこと

    はつきりと見えて遠くに山眠る

    晴れがましすぎはしないか干蒲団

 

芳草集  巻頭 菊竹典祥

     落ちてゐる梅の実を踏む下校かな

     鮎釣や頬張る朝の握り飯

     栗の花溢るる水のやうに咲く

     清流の里に謡へば南風

     青嵐水平線は弓形に

     青蜜柑太る力に揺れてをり

     背伸びして巨峰一房切りにけり

     

    次席 松尾まつを

     干し大根その影日日に長くなり

     驟雨去り三保清見潟富士の嶺

     水番の慌てふためく豪雨かな

     新聞を丸めきつたる蝿叩

     独り居の日日の気ままや秋の蝿

     ドナウ川漁夫の砦に懸る月

     曙や穂高は天に地に芙蓉

 

青草集 巻頭 佐藤健成

     葉桜や学食うまきAランチ

     連休の明けて河原の夏鴉

     蛍火や椿山荘の薄明り

     子育てを終へて世に出る白日傘

     風通ふ本丸茶屋のかき氷

     新涼のラジオ体操第二かな

     病窓の一つ一つに今日の月     

 

    次席 石堂光子

     白南風や希望峰より声来る

     小魚の群の過ぎゆく蛇苺

     初蝉やお堂に千手観世音

     蜩や大雄山の和合下駄

     数珠玉や風の立ち初む夕間暮

     バス一台乗り遅れたる夜寒かな

     濁流の逆巻くほとり秋の蝶

 

   ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

◆ 連載 俳句閑談その三  松尾まつを

 

◆ 俳句講演会の報告「松尾芭蕉の俳句と文学」 松尾まつを

 

◆ 芳草集巻頭に寄せて  吉田良銈

 

◆ 青草集巻頭に寄せて  石原虹子

 

◆ 吟行記「秋の青草吟行句会から」  二村結季 


結社誌「青草」2号(その4)

2017年09月04日 | 結社誌・句会報

 草深昌子句集『金剛』特集

 

特集『金剛』一句鑑賞


 大木あまり

草深昌子さんのことを、私はひそかにマダム!と呼んでいる。それは洋服のセンスが抜群に良くて芦屋のマダムのようだから。
 そのマダムが句集『金剛』を上梓された。写生の昌子と呼ばれるだけあって、作句の修練によって培われた写生眼の確かな句が随所に見られる。格調の高い句集である。
 あれこれ選に迷ったが、独特の視点と遊び心のある二句を鑑賞させていただくことにした。


  
七夕の傘を真つ赤にひらきけり  昌子

 

 

七夕とは、五節句の一つ。天の川の両岸にある牽牛星と織女星が年に一度会う七月七日の夜、星を祭る行事のこと。星祭は子供でも知っている庶民的な行事だが、よく雨が降る。この句は、「傘を真つ赤に開きけり」で雨の七夕の情景を簡潔に表している。傘の色が白や水色では付きすぎだし、趣が無い。「真つ赤に」に艶やかさがあるのだ。シンプルに詠んで鮮烈な印象を与える七夕の句である。

 

  銀蝿を風にはなさぬ若葉かな   昌子

 

強風で動きの取れない銀蝿が、青い葉にしがみつようにじっとしている。それを発見した作者は、対象を凝視することでこのような一句に仕立てた。着眼点の良さもさることながら、軽妙洒脱。物を見てその「物」に語らせつつ作者の遊び心を感じさせる。なんとも「風にはなさぬ」の措辞が艶だ。

                                          

  榎本 享

 

  露けしやかたみに払ふ蜘蛛の糸   昌子

 

 草深い径を誰かと歩いていたのでしょう。仲間の髪にくっ付いている蜘蛛の糸に気づいてつまんであげた。「あら貴方にも」と笑いつつ手が伸びて、肩先の糸を払ってくれる。
 そんな誰にでも経験のある一瞬を「露けし」という季語がしっとり描き出す。
 ささやかな出来事をも心から楽しめる余裕が、昌子俳句の豊かさである。「かたみに」という仮名書きの言葉に、その響きに、人の温もりが感じられる。

 

  夏館ものの盛りは過ぎにけり   昌子

 

 籐椅子も簾も飴色の艶をもつ親しい味わい。ベランダから望む木々の緑も、その枝を吹き渡る風も晩夏の風情。視野に入るものだけでなく、その家の空気も自身の体調さえも、盛を過ぎたという思い。寂しさではなく、全てを肯定し、受容する大らかさなのだろう。
 「夏館」をこんな風に詠んだ作品に初めて出会った。読み手に対する信頼が、省略を利かせた深みのある作品を生み出すのだろう。
 昌子さんは本当の大人である。純な子ども心を持ち続けている稀有な大人である。

                                     

 藤埜まさ志


  小春人ただ道なりに行けと言ふ   昌子

 

吟行にでも出掛けていて途中で道を尋ねたところ道なりに行けば着きますよと教えられたという。解りやすいようだが、芭蕉の実質的な辞世の句とも言われている「この道や行く人なしに秋の暮れ」の句に呼応しているとも思える。俳聖芭蕉の「この道」とは当然俳句の道だが、その言葉に昌子さんは「自分は自然体で道なりに俳句の道を歩むだけです」と応えているかのようだ。それは「外の風物とわれわれ自身をも貫く宇宙のリズムに従え」と説く師大峯あきらに繋がる姿勢なのであろう。小春人とは大峯あきらであり宇宙のリズムそのものなのだ。
 中村草田男の句に「真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道」ある。白痴とはドストエフスキー的な聖白痴をいうが、その指さす「真直ぐ」は己の信じるところを真直ぐにという己が勝った意味合いが強く、肩肘張っている。ニーチェ的主知的西洋風であり、「道なり」とする昌子さんの東洋的な柔らかい態度とは少し違うように思えて興味深い。
 対象へ注ぐ柔らかく独自の視点と把握、無理のない表現、そうだからこそ溢れんばかりの詩情、「金剛」は昌子俳句のこれまでの見事な到達点である。
 今後「道なり」の昌子俳句の一層の成熟から目が離せない。

                                             

 岸本尚毅


  晩秋や薔薇の疎らに明らかに   昌子


 「疎ら」「明らか」というありきたりな形容無造作に使われている。読者は、晩秋の寂しげな風情をすんなりと感得できる。
 この句集の一つの読みどころは、力まずに使った形容詞の巧みさである。
 たとえば「やはらかになつてきたりし踊の手」の「やはらか」はだんだんこなれて来た踊り手の動きをよく表している。「だんだん」などという野暮な副詞を使わずに、動詞と助詞だけで「なつてきたりし」としたところも巧い。
 「蜂きたり秋の日傘に狂ほしく」の「狂ほしく」も実にピッタリの形容である。「狂ほしく」が生きるためには、上五の「蜂来たり」が無動作であること、また「秋日傘」ではなく「秋の日傘」であることなど、言葉が周到に選ばれていることが必要である。「蜂が来る秋日傘へと狂ほしく」だったら、この句は全然ダメなのである。
 「甘茶仏少しく肥えておはしけり」の「少しく肥えて」も良い。だから「おはしけり」という少し気取った言葉が生きるのである。
 「鰺刺や紙の如くに白く飛び」の「紙の如く」はもちろん巧いが、「白く」を連用形で使ったちころがもっと巧い。「鰺刺の白きが紙の如く飛び」ではイマイチなのだ。
 俳句は技術や巧さより「こころ」や人間性が大切だという声も聞くが、もしかすると、そいう物言いは綺麗事ごとに過ぎないのかも知れない。いわゆる「へたうま」含め、俳句は巧ければ巧いほうがいいと思う。

                                           

 中西夕紀

 

   金剛をいまし日は落つ花衣   昌子

 

金剛とは、奈良県と大阪府の境にある金剛山ことで、金剛山地の主峰であり、標高1125メートルの美しい山だ。花の吉野山から大阪の方を眺めると、ひときは雄々しいのがこの山で、夕日の山容の美しさは格別である。
 草深さんは、毎年大峯あきら先生と山本洋子先生を中心に集まった晨の同人達と、花の時期の吉野山へ登っている。吟行コースは、桜の開花状況や宿によって変るのだが、観光客の歩くコースはなるべく通らないで、畑の中や、細い山道を自由自在に歩き回る。
 そして、そこで生活している人達との会話を楽しみ、時に庭を見せてもらうこともある。私も晨に参加していた数年間この吉野吟行にご一緒させて頂いた。
 草深さんは非常に多作な作者である。句会場に着くと、大学ノートを開き、一行も空けずに小さな字で句を一心に書き続ける。やがて、ノートの開かれたページは余白がなくなり、その中から十句を短冊に書き写されるのである。他の人達はというと、歩き疲れてうたた寝をしていたりするのだが、草深さんだけはいつも黙々と作り続けていたように記憶している。
 俳句にも関東風と関西風がある。関西風ははんなりした風合いで、関西生まれの草深さんの句は、典型的な関西風であり、流麗で、濡れた艶を見るような語感である。


結社誌「青草」2号(その3)

2017年09月04日 | 結社誌・句会報

 草深昌子句集『金剛』特集


『金剛』書評            岩淵喜代子

 

      文体を獲得した作家

 俳句の未来はどうなるかという話題は、絶えず浮上する。しかし云いつくした論を流し器に流し込んでみれば、最後に残るのは写生しかないのである。

 芭蕉の「即刻打座」も虚子の「客観写生」・「花鳥諷詠」にしても、この写生ということばを下敷きにしなければ成り立たない。俳句だけではない、文芸のすべては、この手堅い写生を駆使することこそが基本なのである。

 草深昌子さんの俳句は、まずこの写生力という点で際立つ俳人だとかねがね思っている。

  

  秋風のこの一角は薔薇ばかり

 

  綿虫に障子外してありしかな

 

  対岸の椅子に色ある残り鴨

 

  一束は七八本の芋茎かな

 

  あめんぼう大きく四角張つてをり

 

 一句目(秋風の)は、ゆったりと平らな地形が広がる中に突然薔薇園が現れる。秋風の吹く虚の景から薔薇園を焙り出したような巧みさがある。

 二句目(綿虫に)は誰でも知っているように小さな虫である。人がそれに目を止めるのは、純白の綿を纏ってふわふわ飛んでいる様子が詩情を誘うからだ。

(綿虫)に続く(障子外してありしかな)によって、真白な綿虫がより真白く、小さな綿虫が大きく見えて来て、不思議さを誘うのである。

 三句目(対岸の)もまた淡々と視覚が捉えた景である。対岸という漠とした景に椅子を置いて、さらにその椅子に色がある、と叙述したときに風景の焦点がきちんと定まったのである。そうして椅子と残り鴨に、有るか無きかの響き合いが生まれ、はじめて景が語りはじめるのである。

 4句目(苧殻)は盆の迎え火や送り火のために用意されたもの。買い求めてきた苧殻を眺めながら、これが彼岸のはらからたちの迎え火になるのかと思いながら眺めていたのが感じられる。その想いが、一束が七八本だという極めて沈静な、そして極めて即物的な叙述に置き変った。

 五句目も視覚が捉えた発見である。四角張っているのはその輪郭ではないのである。身体から伸ばした長い四本の足が押さえた足先を点として結んだ空間なのである。句集にはこの作者独特の視覚の発見が随所にある。

                            

  七夕の傘を真つ赤にひらきけり

 

  蝶々の飛んでその辺みどりなる

 

  いつかうに日の衰へぬ梨を剝く

 

さりげなく読み進んでいく中で、ふと意表を突かれて立ち止まるのが一句目である。普通に言えば赤い傘を開いたという叙述なのだが、その赤いという形容詞を動詞的な使い方をしているのだ。そうしてこの作者が詠むと(傘を真つ赤にひらきけり)となる。まるで開くたびに様々な色に変化させられるかの如く。この巧みさは、七夕の季語斡旋からはじまっている。この季語によって、いよいよ傘の赤さが際立つのである。作者の文体と言える表現方法である。二句目の蝶々の飛ぶ先々がみどりだと断定、三句目の梨を剝くにいたる叙述、ことさら変っているようにも見えないのに独特な文体である。

 

  一枚の朴の落葉を預かつて

 

  秋の蟻手のおもてから手のうらへ

 

朴の句は、思わず口元が緩んでくるような面白さがある。冬になると大きな朴の葉が根元に散乱していることがある。そんな朴の一枚が、誰かの手から作者の手に預けられた。ただそれだけのことなのだが、預かった手にある大きな朴の葉がさらにクローズアップされて、置くことも仕舞うことも出来ない戸惑いが(預かって)に発揮されている。その、対象物を拡大して提示させているのは、二句目の蟻にも言える。句集を開きながら、しばしば巧みな作り手だなーと感心するのである。

  蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

  最後になってしまったが、私の愛唱してやまない一句である。小さな生き物を覗き込んで、その生き物の動きを追う。

 静寂な視線で見据える無心な作者がいる。その無心さが見事である。