色変へぬ松やはるかに即位礼 松尾まつを
厳粛にも簡潔明瞭の響きがどこまでも透き通っている。
即位礼に対する慶祝がしみじみと余情をひいてやまない。
実は即位礼の当日、青草俳句会では、芭蕉記念館にて句会を催した。
作者は美しい松の木の立ち並ぶ清澄庭園を吟行されたのであろう。
まさに事実である。事実に即した俳句ほど強いものはない。
そして、「色変へぬ松」に込める作者の心情の篤さが、
文字通り「はるかに」も尊厳をこめたものとして奥深くも堂々たる一句に仕上がったのである。
事実から真実を引き出したということである。
松は一年中色緑であるが、ことに多くの木々が紅葉するころとなると、
その常磐木の緑のゆるぎなき鮮やかさは日本人の忍びごころそのもののようでもある。
秋時雨江戸深川に来てをりぬ 市川わこ
先の、芭蕉庵吟行では何とか一句をものにしようと、皆さんは相当に気張った句をお作りになった。
お互い、雨の中よく頑張ったよねという思いで読ませていただくなかで、
この句に出会ったとき、目の前がパッとひらけたような明るさに救われた。
本当に、よかったねというやすらぎをいただいた。
厚木から遠くやってきて、ここはかの芭蕉の深川なのだ、ここは江戸なのだという、その静かなる喜びをかみしめているような味わいに立ちどまされたのである。
「江戸」は東京の旧名である。
また今年は、芭蕉がここ深川から奥の細道の旅に出て、330年を迎えた、そう江戸は元禄二年のことであった。
「江戸深川に来てをりぬ」という自分に言い聞かせるような満足感の息遣いが、秋の時雨の情感にどこまでも溶け込んでいる。
すつぽんの貌突き出すや初紅葉 石堂光子
先日発行された「俳壇」11月号に、私の作句信条として「俳句は季語で決まり」と、書いたばかりである。
さて、掲句を見るとまさにその通り、「初紅葉」なる季語でもって一句は見事に決まっている。
何で初紅葉かいいのかと問われても困る。作者の直感に、選者が直感でこたえた句としか言いようがない。
散文では説明がつかない、いや説明するとこの句の良さが逃げていきそうである。
俳句は作る楽しみの他に、俳句をわかる楽しさの方がもっと大きいものだと私は思っている。
理屈抜きに、人さまの句を素晴らしいなあと思える、
その日のためには私たちは日々俳句をこつこつ作り上げていくほかないのではないだろうか。
実作のレベルが上がると、間違いなく選句のレベルはあがっている。
冷まじや鷗吹かれて波の上 佐藤昌緒
この句も芭蕉庵句会でのもの。
かの隅田川上空に鷗が飛んでいた、ただそれだけの句である。
その情景が作者の眼と心を捉えてはなさなかったから一句が生れたのである。
「初紅葉」の句と同様、「冷まじや」の句も見た通りでありながら、 そこには作者の心の風景とでもいえるものがはっきり投影されているのである。
「ただそれだけ」の句ほど、強いものはない。
俳句は意味を伝えるものではないので、ただ黙って自然を提示すれば、分かる人にはわかるのである。
秋園の数寄屋百年屋根の艶 泉 いづ
清澄庭園には池に突き出すように数寄屋造りの建物がある。
明治42年に岩崎家が建てたものだという、「涼亭」たる名の通りまこと涼しげな一亭ではある。
ここで句会を度々行ったことのある私には、屋根のみどりが美しいぐらいの感慨であったが、
作者はしっかり屋根の艶というところまで見届けられたのである。
あとはもう「秋園」という、
言わば当たり前の季題を置かれたことで「数寄屋百年屋根の艶」なる韻律を一連にして大いに響かせているのである。
蔦紅葉し初むるここは相撲部屋 川井さとみ
清澄庭園から芭蕉記念館まで小半時の散策には、相撲部屋が三つある。
錣山部屋、尾車部屋、高田川部屋である。
相撲というからには和風であってほしいところだが、今はみな大きなビルとなっていささか殺風景である。
でも、そのビルの壁には蔦紅葉が色付きはじめていたというのである。
「相撲」は本来、年の豊凶を占う神事であったことから秋の季題となっているが、
現在は大相撲が何回も行われて、季節感は伴わなくなっている。
このほんのり赤らんだ蔦の生命力は、相撲取りの肌合いをそこはかとなくイメージさせて楽しい。
初鴨の中の一対よく動き 坂田金太郎
初鴨は多くは群れをなしてくるものであろうが、その群れの中でも何故か二羽だけがしきりにあちこち往来するのである。
あとの鴨は何やらゆうゆうとただよっているばかり。
しばらく見惚れているに違いない作者にも何故だかわからない、
何だか不思議と思われませんか?というのが自然を詠いあげる作者のゆとりである。
ところで、俳句の上達をめざす人は、つい先人の上手な表現を見習って真似をしようとするものであるが、
それだけではただの手練になって行き詰まってしまうであろう。
掲句のように、「素直」に発せられたものには好感がもてる。
思わず読者もこの光景に首を突っ込んでしばし見とれてしまうものである。
「二羽」でなく「一対」とうところに表現の妙がある。
ここには、初鴨のやってきた喜びがおのずから滲み出ている。
二年目の京の暮しや新豆腐 二村結季
京都の名水は有名。当然のように、京都には名店として名高い豆腐の老舗がたくさんある。
私が今もって忘れられないのは、初めての吟行でいただいた南禅寺の湯豆腐である。
さて、掲句の「新豆腐」は美事においしそう、きらきらである。ふと読者に遠い昔の思い出がよみがえったのも頷けるものである。
結季さんのお嬢さんは先年、京都へ転居された。暮らしの趣が大きく変わった一年目には新豆腐を味わっている余裕なんてなかった、
でも二年目の今年は新豆腐をしんから有り難く思われたのであろう。
新豆腐に代表して語られてはいるが京都の暮しそのものにもよく馴染まれているであろうことが伝ってくるものである。
父の釣る落鮎を待つコンロかな 古舘千世
お父さんは相当釣り上手、もう次から次へと釣ってくださるのであろう。
片や、河原には母も子もうち揃って落鮎のピチピチの到来を待っている。
コンロにも赤々と火が回っていますよというところ。
晩秋の日差しもさぞかしたっぷりとあたたかいことであろう。
「コンロ」という日常の何気ないシロモノに焦点を当てて、落鮎という生き物のかなしみをさりげなく感じさせる。
そのポソッとした語感のさびしさもまた落鮎にかようものである。
いぼむしり肚の大きく脈打てり 湯川桂香
濡れそぼつ馬の遊具や鵙の贄 加藤かづ乃
初秋刀魚天まで煙とどけたし 丸山さんぽ
新蕎麦や御柱道幟立つ 松井あき子
耳語かとも防音部室の秋の蠅 日下しょう子
二羽三羽石たたき来て刈田かな 河野きなこ
彼岸花蝶の高さに咲き揃ひ 伊藤 波
むらさきの一両電車花野過ぐ 奥山きよ子
良きことを三つ数へる夜長かな 神﨑ひで子
月の眉なほ細くして闇にあり 平野 翠
秋の暮生け垣越しに話しをり 加藤洋洋
貼りあげし障子の瑕瑾いまいづこ 伊藤欣次
落鮎や純米吟醸盛りこぼし 柴田博祥
鴨渡るこれより酒のうまくなる 間 草蛙
落鮎や釣人の影長くあり 米林ひろ
一つ家に表札ふたつ秋桜 大山 黎