大峯あきらのコスモロジー③ 草深昌子
一休寺
烏瓜佛ごころも戀もあかし あきら
『鳥道』
住職である大峯あきらに「仏ごころ」はいかにも近しい。「仏心(ぶっしん)というは大慈悲これなり」であろう。だが「恋」の一字は大峯あきらに似ても似つかない。そこのところが意表を突かれて異色である。恋はドキドキとしか言いようがないが、仏心と並列されるとなると、その辺の赤とは一線を画する色調が偲ばれもするもの。
夏には純白のレースの花を咲かせ、秋には実を結ぶ烏瓜であるが、その実の真紅は蕭条たる枯れの中でも失せることはない。そんな烏瓜の静かなる執念の色合いをふと恋心に転じたような感覚はなるほどはっとするほどにロマンチックである。
ところがこの句には前書きがあることを失念していた。一休宗純禅師が晩年を過ごした一休寺。ここで一休は七十七歳から八十八歳まで、美女を愛したという言い伝えがある。複雑な一休の生涯だが、大峯あきらには悉くわかるのであろう。
烏瓜はそのまま一休禅師の化身だと言わんばかりである。一休への手向けかもしれないが、私には前書き無しの方がぐっと来るものではある。
紅梅や雪いつまでも笹の奥 あきら
『鳥道』
文字通り奥行きがある。ひんやりとした冷たさの中でこそ、この紅梅の鮮やかさがきらめく。
今ここに在る紅梅、今だけでありながら、今という時が流れていくのをやめたような命のなつかしさ。「いつまでも」と言われると、まことありありと「いつまでも」あり続けるというふうに納得させられるのが大峯あきら俳句の特質である。
檜山出る屈強の月西行忌 あきら
『鳥道』
面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて
歌人であり、武士であり、僧侶であった西行、その出家には謎が多い。かの芭蕉は西行を敬慕して、奥の細道の旅に出たのであった。芭蕉の文学に連なる大峯あきらもまた西行に心酔している。
遥かに仰ぎ見る月は、僧形にして北面の武士であった佐藤義清を偲ぶに十分のものであった。およそ屈強というような大仰なる措辞を用いることのない作者にして、屈強としか言いようがなかったこの時、檜山から上がった月は西行の面影を相照らしてやまない凄みであったことだろう。
屈強という強靭なる言葉は、西行にして持ちこたえるものであると同時に、図らずも作者自身を写し出してしまったかのような心象が思われる。
私の愛誦してやまない句である。
武具飾り鶏鳴何とはるかなる あきら
『鳥道』
「鶏鳴何とはるかなる」という韻律の奏でる詩情はやはり独特のものではないだろうか。ロマンチストを包み隠さないものである。それでいて断じて情に流されるというようなものではない。
「武具飾り」なる季題の由緒が行き渡っている。
黒南風のやがて白南風長命寺 あきら
『鳥道』
黒南風と白南風を並列して、その違いを明らかに示している。つまり長命寺でなければこうは詠えないものとなっている。長命寺は琵琶湖畔に聳える長命山の山腹にあり、参詣すると長生きすると言われる。そんな所以を知らなくても、その字面から、日々刻々吹き寄せてくる風のありようが生き物のごとく印象されるものではないだろうか。「黒」と「白」の対比も垢抜けしている。
じっくりと感興が湧くまでそこに吹かれて得た一句であろう。読者にも通ってくる風である。
第二句集『鳥道』は昭和五十六年刊行。作者四七才から五二才までの作品である。
―題名とした「鳥道」は、九世紀の中国の禅僧、洞山の語録にある。鳥の飛行する道には何ものも残らない。蹤跡をとどめない鳥道の端的に、洞山は佛道の大いなる自由を教えたのである。そして佛の道とはとりもなおさず、われわれの真の自己の道のことである。山国に住む私にとって、頭上を通る鳥道は朝な夕なに親しい。
洞山が説いた実存の根柢は、そのまま、鳥が行く碧落の美学たることを拒みはしないであろう―
あとがきに呼応するまでもなく、一集に「日」と「月」の句は多い。
年用意朝日も夕日も大きくて
梟の月夜や甕の中までも
鰯来て日と月とある小村かな
月の杣高き齢でありにけり
餅搗のすみて夕日の前を掃く
木賊刈ゆふべの月のことを言ふ
大峯あきらの自然観照は大振りにして静謐なるものであるが、そこにはそのまま作者の全体重が乗っかっている。ロマンを感じるのは自己が自然の中にそっくり溶け込んでいるからであろう。
「人」の句も出色。人には格別の品格がただよっていて、すこぶるやさしい。
杉山を餅配る子が越えてゆく
水餅や中千本によき娘をる
光秀のやさしさ思へ早苗籠
寒櫻人もをらずに咲きにけり