青草俳句会

草深昌子主宰の指導する句会でアミュー厚木での句会を主な活動としています。

青草7号3

2020年03月27日 | お知らせ
大峯あきらのコスモロジー③  草深昌子


一休寺
烏瓜佛ごころも戀もあかし  あきら 
    『鳥道』                  
 住職である大峯あきらに「仏ごころ」はいかにも近しい。「仏心(ぶっしん)というは大慈悲これなり」であろう。だが「恋」の一字は大峯あきらに似ても似つかない。そこのところが意表を突かれて異色である。恋はドキドキとしか言いようがないが、仏心と並列されるとなると、その辺の赤とは一線を画する色調が偲ばれもするもの。
夏には純白のレースの花を咲かせ、秋には実を結ぶ烏瓜であるが、その実の真紅は蕭条たる枯れの中でも失せることはない。そんな烏瓜の静かなる執念の色合いをふと恋心に転じたような感覚はなるほどはっとするほどにロマンチックである。
ところがこの句には前書きがあることを失念していた。一休宗純禅師が晩年を過ごした一休寺。ここで一休は七十七歳から八十八歳まで、美女を愛したという言い伝えがある。複雑な一休の生涯だが、大峯あきらには悉くわかるのであろう。
烏瓜はそのまま一休禅師の化身だと言わんばかりである。一休への手向けかもしれないが、私には前書き無しの方がぐっと来るものではある。

紅梅や雪いつまでも笹の奥   あきら  
   『鳥道』
 文字通り奥行きがある。ひんやりとした冷たさの中でこそ、この紅梅の鮮やかさがきらめく。
今ここに在る紅梅、今だけでありながら、今という時が流れていくのをやめたような命のなつかしさ。「いつまでも」と言われると、まことありありと「いつまでも」あり続けるというふうに納得させられるのが大峯あきら俳句の特質である。

檜山出る屈強の月西行忌     あきら
    『鳥道』
 面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて
歌人であり、武士であり、僧侶であった西行、その出家には謎が多い。かの芭蕉は西行を敬慕して、奥の細道の旅に出たのであった。芭蕉の文学に連なる大峯あきらもまた西行に心酔している。 
遥かに仰ぎ見る月は、僧形にして北面の武士であった佐藤義清を偲ぶに十分のものであった。およそ屈強というような大仰なる措辞を用いることのない作者にして、屈強としか言いようがなかったこの時、檜山から上がった月は西行の面影を相照らしてやまない凄みであったことだろう。
屈強という強靭なる言葉は、西行にして持ちこたえるものであると同時に、図らずも作者自身を写し出してしまったかのような心象が思われる。
私の愛誦してやまない句である。

武具飾り鶏鳴何とはるかなる   あきら
    『鳥道』
 「鶏鳴何とはるかなる」という韻律の奏でる詩情はやはり独特のものではないだろうか。ロマンチストを包み隠さないものである。それでいて断じて情に流されるというようなものではない。
「武具飾り」なる季題の由緒が行き渡っている。

黒南風のやがて白南風長命寺   あきら
  『鳥道』
黒南風と白南風を並列して、その違いを明らかに示している。つまり長命寺でなければこうは詠えないものとなっている。長命寺は琵琶湖畔に聳える長命山の山腹にあり、参詣すると長生きすると言われる。そんな所以を知らなくても、その字面から、日々刻々吹き寄せてくる風のありようが生き物のごとく印象されるものではないだろうか。「黒」と「白」の対比も垢抜けしている。
 じっくりと感興が湧くまでそこに吹かれて得た一句であろう。読者にも通ってくる風である。
第二句集『鳥道』は昭和五十六年刊行。作者四七才から五二才までの作品である。
―題名とした「鳥道」は、九世紀の中国の禅僧、洞山の語録にある。鳥の飛行する道には何ものも残らない。蹤跡をとどめない鳥道の端的に、洞山は佛道の大いなる自由を教えたのである。そして佛の道とはとりもなおさず、われわれの真の自己の道のことである。山国に住む私にとって、頭上を通る鳥道は朝な夕なに親しい。
洞山が説いた実存の根柢は、そのまま、鳥が行く碧落の美学たることを拒みはしないであろう―
あとがきに呼応するまでもなく、一集に「日」と「月」の句は多い。
年用意朝日も夕日も大きくて
梟の月夜や甕の中までも
鰯来て日と月とある小村かな
月の杣高き齢でありにけり
餅搗のすみて夕日の前を掃く
木賊刈ゆふべの月のことを言ふ
 大峯あきらの自然観照は大振りにして静謐なるものであるが、そこにはそのまま作者の全体重が乗っかっている。ロマンを感じるのは自己が自然の中にそっくり溶け込んでいるからであろう。
「人」の句も出色。人には格別の品格がただよっていて、すこぶるやさしい。
杉山を餅配る子が越えてゆく
水餅や中千本によき娘をる
光秀のやさしさ思へ早苗籠
寒櫻人もをらずに咲きにけり

青草7号2

2020年03月27日 | お知らせ
芳草集  草深昌子選

松尾まつを
万緑や君とキスせむ丘の上
令和元年皐月朔日鹿島立ち
南州の像高きこと棕櫚の花
赴任してあらぬ彼方に遠花火
病棟の丸き天窓寝待月
色変へぬ松やはるかに即位礼
落鮎や小鮎川から中津川

菊竹典祥
飛んできて落花の一つ鍬に付く
麦こがし口に這入れば静なり
彼と我漉餡をとる柏餅
幼虫のとことんかじるキャベツかな
昼寝覚め謡の稽古また始め
長茄子や盛り過ぎれば丸々と
秋晴や打込む鍬は土深く


青草集  草深昌子選

佐藤昌緒
老鶯や急坂ゆけば行き止まり
昼寝より覚むるや猫のかほ間近
クリムトの金のようなる代田かな
紙魚の書や眠れぬ夜の入り口に
潮浴や遠目に足の透きとほり
黒雲の西は明るき五月雨
深川や飯屋のおやぢ日焼顔

松井あき子
坂道に柏若葉の門のあり
雲の囲や植込みに雨ちらばりて
川縁の斜面の枇杷のたわわなり
虫食ひの青紫蘇毟る日暮かな
丈高き柘榴の花の雫かな
強羅発殿様ばつた同乗す
白桃に老いの掌丸くなりにけり

青草7号

2020年03月27日 | お知らせ

「青草」2020年春季(第7号)が令和2年2月に発刊されました。
さらに頁を増やして、内容の充実を計りました。
その一部をご紹介いたします。



青山抄(7)  草深昌子
欄干を跳んで蛙や秋の風     
たまに来てすつかり秋の道であり
子規の忌の霞が関を過ぎりけり
底紅に看板出して鍛冶屋かな
今しがた蛇の失せたる臭木の実
寝姿の釈迦ある寺や新豆腐
秋夕べ地べたのやうな海の色
その人は遥か蜻蛉の群るるなか
秋暮れて一つ糸瓜を長くせり
豊の秋鴉のこゑのただ阿房
一亭は水に浮きたるやや寒う
宵月のニセアカシアの実と思ふ
ふと濠にさざなみたてて柳散る
大手門出でて大路や十三夜
幹太くなまめく鮎の下るころ
薔薇のほか無きが如くに秋の苑
あめんぼの大きくまはす水澄めり
部屋の名に山また川や雁渡る
たれかれと目の合ふ美男葛かな
小春日の珈琲買ひに行つたきり
(「俳壇」「俳句界」に発表を含む)

青草往来  草深昌子
 芭蕉が『おくのほそ道』の旅に発ったのは元禄二年、西行の五百回忌の年である。令和元年は三百三十年を迎えるというので、都内で芭蕉展があった。芭蕉の真蹟はもとより芭蕉を慕った人々の書画が展示された。
野をよこにむま引むけよほとゝきす  はせを
落款の「を」は意気揚々と撥ね上がっている。これに画を付けた森川許六の馬のふんばりも頼もしい。
 馬からふと思い出されたのが、竹西寛子が、与謝蕪村の「奥之細道図」を褒め上げ、馬の尻尾の振り方までいいと書いていたことである。なるほど那須野の図など、馬上の芭蕉は飄々とありながら曾良と心を通わせているさまが偲ばれて、筆の先の先まで芭蕉への敬慕の念が滲み出ているものであった。
ふる池やかはつ飛込水の音  はせを
芭蕉の筆致は柔和でありながら、筆の入れかたや止めにはメリハリが利いていて筆は一息に走っている。 
 書道に疎いにもかかわらず、いちいち引き込まれたのは、その筆跡が俳句の内容と切っても切れぬ関係につながっているからであろう。
事実、芭蕉の書風は、俳風の展開に伴って変わっていったという。命をかけて推敲した一句一句の情は、まこと真摯に一字一字に乗り移っているのであった。
 芭蕉展を出ると、旧友の姿が思い浮かんだ。ばったり出くわすたびに、「今日もこれですか?」と、左の手のひらを短冊に見立てて突き出すと、右手に筆をすべらす仕草を大げさにして見せるのである。俳句という文芸は今も矢立を手にした芭蕉と結びついてしまうのかと、恥かしくも笑ってしまうのであったが、実はこの即興こそが俳句の根本ではなかったか。
昨今は、筆はおろかペンさえも遠のき、パシャパシャとパソコンに打ち込むばかり、そんな私に友人は発破をかけてくれているのかもしれない。
 俳句は芭蕉の文学であることを再認識するにいたって、せめて句帖には心のこもった文字を書き付けねばならないと気付かされたものである。

青草俳句会・新春句会選後に

2020年03月27日 | お知らせ


令和2年2月20日(木)、「青草」の新春句会が開催されました。
アミュー厚木において真剣そのものの句会のあと、懇親会をレンブラントホテル厚木に移して、
華やかにも大いに盛り上がりました。
主宰作品
  金塊のただつるつるの寝釈迦かな  昌子
  日輪に顔を曝して梅見かな  
  磐石につぐ磐石や梅見頃

主宰選評

  もの言はぬ日も十日目や春の水   佐藤昌緒
 上五中七と読み下ろしてゆくと、果たしてどうしたのだろうかと、句またがりの感覚もあって、「十日」という長さに驚き、そのうす暗がりの雰囲気をさびしくも危ぶむものである。
そこへ下五に「春の水」とくると、杞憂を吹き飛ばさんばかりに鮮やかな真っ青な水がひらけてしばし得難い安堵につつまれた。
春水に出会った今日からはもう元気はつらつである。
「春水四沢に満つ」という詩情に満たされたのである。
人の世にはいろいろのことが降りかかってくるが、いつの時も、
なぐさめをもたらすのは永遠の今という自然との出会いである。
「春の水」のうるわしい感覚が一句のどこにも染み入るようである。

  春ショール扇のやうな藻の揺れて  日下しょう子
 水にひらいた藻を扇のようだと見届ける心には、春の日中にあってふわりと羽織ったショールのよき感覚があってのものであろう。
つまり、扇のようなという比喩は頭で考えたものでなく作者の直感でとらえたやさしさである。
 言葉数が多いと思われるフシもあるが、ショールを通して春到来のよろこびが匂い立つものである。

  春寒や水鳥の羽舞ひ上がり  平野翠
 富士山を源流とする相模川は四季折々自然の宝庫である。
我らが青草俳句会の面々は、どれほど相模川と大山阿夫利嶺の恩恵にあずかっていることだろうか。
これからも感謝をこめて風土のありがたみを詠い続けていきたいものである。
掲句も相模川での一句ではなかろうか。
 水鳥」は冬の季語だから季重なりなどというのは野暮ったい。
「素直に本当のこと」を詠いあげただけのこと、それが韻律のよろしさに表れている。
 何鳥であろうか、川から飛びあがった瞬間にひろげた羽の白さに、思はずはっと寒さを覚えたのである。
 冬の寒さではない。
「水鳥の羽舞ひ上がり」の表出には「春」の感覚がゆきわたっている、春寒料峭である。
「春寒」は「はるさむ」でなく、「しゅんかん」とやや強い響きをもって読み上げたいと思う。

  雛菓子の一つ二つと増えてをり  堀川一枝
 3月3日にさきがけて雛人形は立春から飾って、一か月はゆうに楽しませてもらうものである。そこには桃の花や菜の花も活けられるであろう。
そして雛壇に供えられた雛菓子は、はじめ菱餅だけであったのに、日の経つうちに桜餅があり、雛あられがありといろいろのお菓子やお餅が増えていったというのである。
 老いて雛飾りをしない者であっても、せめてもとばかり色とりどりの美しい雛菓子だけは揃えたくなるものである。
 この折に来客のもたらすものもまた雛菓子である。
 掲句は人の動きも感じられ、愛らしくも明るいなごやかさが溢れている。
 桃の節句をこういう角度から詠いあげることもできるのかと感銘しきりである。

  蕗の芽のあと一週間は太らせよ  湯川桂香
 「一週間は長過ぎないか」という意見も出たが、俳句における一週間は実数としての一週間ではない。
大まかな、手につかみ取れる程度の空間をそう言ったまでのことである。
実際のところ一週間もすれば蕗の花となって呆けてしまうかもしれない。
とにもかくにも、蕗の芽大事の気持ちを、今引き抜くには時期尚早ということを、
詩情たっぷりに表出すると掲句のようになるのである。
 桂香さんはまぎれもなく詩人である。

  かたかごの花や小雨の詩仙堂  古舘千世
 詩仙堂は石川丈山が詩歌三昧の隠遁を送ったという美しい庭をもっている。
 詩仙堂というと即座に〈初冬の竹緑なり詩仙堂  鳴雪〉が浮かび上がって、
 もう他の句は要らないというものであったが、この片栗の花に出会って、
 ひそやかなる吐息がもれたものである。
 内藤鳴雪とは別種の、こんな表情も見せてくれる庭であったかとしみじみする。
「小雨」の詩情がゆきわたっている。

  花咲くや仕舞ひしままの車椅子  佐藤健成
 以前は使っていた車椅子だが、いまは不要になって倉庫か納屋に仕舞ったままになっているのだろう。
桜の美しく咲くある日のこと、しばしそのありように引き寄せられたのである。
「花咲くや」からは車椅子のそこに在った人へのなつかしさというか、
面影が濃く漂っているように思われる。
作者自身が過去に使っていた車椅子であれば「桃咲くや」でも「梅咲くや」でもいいだろう、
「花咲くや」は作者にとって取り換えのきかない季題ではないだろうか。
感情は一切述べず、車椅子という具体的なものを提示しただけであるが、
分かる人には分かる、これが俳句である。

青草新春句会(2020年)

2020年02月27日 | お知らせ
開催令和2年2月20日(木)午前10時~12時句会場・アミュー厚木502号室
懇親会・レンブラントホテル厚木 午後1時~午後3時

 主宰特選天賞
  もの言はぬ日も十日目や春の水  昌緒

 主宰特選地賞
  春ショール扇のやうな藻の揺れて  しょう子

 主宰特選人賞
  春寒や水鳥の羽舞ひ上がり  翠

 高得点賞
  釣る気などなくて釣人春の風  小径

 編集長賞
  かたかごの花や小雨の詩仙堂  千世

 同人会長賞
  さりさりと薄氷に来るかいつぶり  まさ一

 その他特選句
  春眠やたどりつけない夢ばかり  欣次

  雛菓子の一つ二つと増えてをり  一枝

  運河より海へ舵取り春夕焼け  しょう子

  まつさらな原稿用紙寒明くる  黎

  乗り継いで初めての町月朧  しょう子

  切株に座すればすぐに蝶寄り来  ちとせ

  花咲くや仕舞ひしままの車椅  健成

  蕗の芽のあと一週間は太らせよ  桂香

  かたかごの花や小雨の詩仙堂  千世

 主宰作品
  金塊のただつるつるの寝釈迦かな  昌子
  日輪に顔を曝して梅見かな  
  磐石につぐ磐石や梅見頃

        

「青草」が、角川『俳句年鑑』に記載されました。

2020年01月07日 | お知らせ
「全国結社・俳誌1年の動向」
青草 主宰=草深昌子  「同」間草蛙  「編」松尾まつを

◇=平成29年2月、草深昌子が創刊。大峯あきらの宇宙性俳句を標榜。自然の中で自然と共に生きる、季節を感受する喜び。                        「年2回刊」
◇=平成31年2月、新春句会並びに「青草」発足10周年の祝い。4月、小田原城にて中央吟行句会開催。

 山と海あらば空ある新酒かな              草深昌子
 かちわりや快音またも空を抜け      松尾まつを 
 ことさらの設へもなく迎盆               間草蛙
 睡蓮の一片ごとに今朝の風              坂田金太郎
 チューリップ時々来るよ犬の鼻            佐藤昌緒
 深く吸ひ静かに吐くや苺の香           菊竹典祥
 知らぬ子に手を握らるる花火の夜    佐藤健成
 ねころんで瀬の音聞くや鮎の宿          柴田博祥
 子かまきり田守の衿に乗つてをり     二村結季

 諸家自選五句          草深昌子
  春寒の汀のここは松林
  今し行く小倉遊亀かも白日傘
  君が墓キリンビールで濡らしけり
  底紅に看板出して鍛冶屋かな
  雲去れば雲来る望の夜なりけり

(角川『俳句年鑑』2020年版所収)

新作巻頭3句

2019年11月29日 | お知らせ
「青草」主宰の句が、
2019「俳句界」11月号に掲載されました。

新作巻頭3句
草深昌子 

 欄干を跳んで蛙や秋の風
 底紅に看板出して鍛冶屋かな
 たまに来てすつかり秋の道であり

        (「俳界」2019年11月号所収)

2019「俳壇」11月号

2019年11月24日 | お知らせ
「青草」主宰の句が、
2019「俳壇」11月号に掲載されました。

俳壇ワイド作品集 今月の主宰
臭木の実  草深昌子 [青草]

 刻々の季節のありように驚かされます。
 変化してやまない宇宙の不思議をダイナミックに詠い上
げてゆきたいものです。
 俳句は季題で決まります、季題には私の愛情がこもります
ゆえに「俳句は愛情」ということになりますでしょうか。

 臭木の実摘むべく竹を編んでをり
 扇風機回つていゐたる三和土かな
 二の腕のゆたにたゆたに踊るなり
 道連れの法師蝉とはなりにけり
 寝姿の釈迦ある寺や新豆腐
 幹太くなまめく鮎の下るころ
 一家みな一つ間にゐる良夜かな

(「俳壇」2019年11月号所収)

講演会開催のお知らせ

2019年11月05日 | お知らせ

主催 青草俳句会

日時 11月21日(木曜日)

   14:00~15:00

会場 アミュー厚木504号室

講師 松尾まつを

演題 「俳句と仏教」

司会 草深昌子

多数のご来場をお待ち申し上げます。



講演会開催・盛況にて終了!

硬軟併せ持つ軽妙な話術にて1時間があっという間に終了しました。


記事 佐藤昌緒