青草俳句会

草深昌子主宰の指導する句会でアミュー厚木での句会を主な活動としています。

青草4号(秋号)発刊される

2018年08月21日 | 結社誌・句会報

皆さん待望の『青草』2018年秋季・第4号が発刊されました。
「より多くの人に誌面に登場して貰いたい」との草深昌子主宰の編集方針が反映されて、一段と読み応えのある紙面となりました。



青草往来      草深昌子 

 大峯あきら先生が急逝され、四月の吉野吟行は淋しかった。桜は早くも散って、全山緑の中を、水分神社まで下っていくと、ふっと冷たい夕風がよぎった。その時、透き通った一羽の鳥の声が森閑と鳴り響いた。ツキ、ヒ―、ホシ、ツキ、ヒーホシ・・鵤(いかる)であった。
「月、日、星」とは宇宙そのものではないか。「宇宙はあそこでなく、ここである」、そう語られた通り、独自の宇宙性俳句を確立された大峯先生のお声ではないか。

      鵤鳴くほどに大峯あきら恋ふ           昌子          

 茫然自失の日々の中にも、「青草」の句会は、いよいよ熱を帯び、笑いの渦に包まれていった。うかうかしてはおれない、いつの間にか気を引き締めなおしている私を発見して嬉しかった。今更に、俳句という文芸は、心身を鍛えてもらえるものだと気付かされている。
 ふと、ひと昔も前のことを思い出した。プロ野球の王貞治氏は、奥様に先立たれ、重病を体験されながら、監督となって尚、ユニホームを脱がずに着続けられていた。 その理由を問われたとき、「ときめきかな。グランドという勝負の場にいるとき感じるときめき。この齢になっても一投一打にドキドキする。生きている証みたいなものを強く感じるのです」と答えられていた。 
 
野球のグランドを「句会」に置き換えると、そのときめきがよくわかる。一句一句にドキドキするのも俳句によく似ている。俳句を通して人に会い、物に会い、言葉に出会う、そのさまざまの何と有難いことだろう。

 大峯先生は、「死ぬ」という言葉すら超えた「存在」というものを思想的にも宗教的にも文学的にも教えてくださった。それらを、これから先、老いるという新しい体験のなかで、私自身の言葉としてどう表現してゆけるだろうか。

とにもかくにも俳人は、最後の最後まで真剣に、真っ正直に生きよと身をもって示してくださったのであった。

 

青山抄(4)              草深昌子

 雲去れば雲来る望の夜なりけり

 口に出て南無阿弥陀仏けふの月

 常磐木の丈高ければ枯木また

 凩やあはれむとなく人の杖

 夜もすがら書きつづきたる霜の文

 絨毯を踏んでグランドピアノまで

 朽木とも枯木ともなく巨いなる

 往き来して雪の廊下やただ一人

 ひんがしに傾く木々の芽吹きかな

 踏青のいつしか野毛といふあたり  

 ふと寒くふとあたたかや遅ざくら

 大仏の肩に耳つく春の雷

 一軒に遠き一軒ミモザ咲く

 墓地のある景色かはらぬ紫木蓮   

 永き日の丸太担いで来たりけり 

 その木ごとゆらりゆらりと剪定す  

 前に川うしろに線路柏餅

 引戸ひく音の八十八夜かな

 津に住んで津守といへる棕櫚の花

 そこらぢゆう煤けて兜飾りけり

 

芳草集(草深昌子選)  坂田金太郎(巻頭)

 いつになく喋りすぎたる蝶の昼

 春の風人来て無沙汰わびにけり

 次の世も男でいいか蝉の殻

 此処よりは駿河の国や式部の実

 ちりちりと明くる野面の霜囲

 映画館出口しぐれてをりにけり

 水際の砂の白さや日脚伸ぶ 

 

青草集(草深昌子選)  山森小径(巻頭)

 黒焦げの団子を分かつどんどかな

 大寒の暮れて雨音激しかり

 蝋梅の開ききらぬを啄ばめり

 春立つや鳴子こけしの花模様

 大声で何か指さす磯遊び

 八角の観音堂や榠樝の実 

 冬晴や松の合間を船のゆく    


(更新:坂田金太郎 2018/08/21) 


「青草」第3号(2018年春季号)を読む

2018年08月12日 | 結社誌・句会報

俳句結社誌『澤』の平成30年7月号 通巻220号の誌面『窓:俳句結社誌を読む 高橋博子』で
「青草」第3号2018年春季号が紹介されました。

『窓:俳句結社誌を読む 高橋博子』より(全文)

厚木市の生涯学習の「俳句入門講座」より発足した。
 草深昌子主宰は、〈「青草」の俳句は初めて俳句を作る喜びに端を発したものです。これからも飾らない私、子供の心を持った私の句でありたいと願っています〉と冒頭に記された。

  めいめいのことして一家爽やかに   草深昌子
  晴れがましすぎはしないか干蒲団   同

  一句目、ある日曜日。自分の勉強や趣味に一家それぞれ充実した時を過ごしておられる。背中に暖かい視線を感じながら干渉しないお互い。気持ちのよい清々しい風が吹き渡る。
 二句目、集合住宅のベランダの風景であろう。一家全員の蒲団がぎっしり干され午前の日を浴びている。夜には子供たちは陽光を含みふっくらとした蒲団にぐっすりと眠るのだろう。健康的な生活感は面映ゆいほど。「晴れがましすぎはしないか」の措辞が印象的。洒脱。

   青蜜柑太る力に揺れてをり      菊竹典祥

 青蜜柑のつやつやとした表皮。段々と実を太らせる様子は生命力豊かだ。風に揺れる蜜柑をまるでみりみりと実る力に揺れているようだと描かれた。実りを実感し喜んでいる。逞しい。

  独り居の指差し確認蚯蚓鳴く     古舘千世

 独り住まいでは、夜休む前、点検、戸締り、消灯と確認事項が多々あろう。ひとつひとつ指差し確認をされている。
「蚯蚓鳴く」は秋の夜、土の方からジーとしたような音が聴こえること。本当は螻蛄の声らしいがこれを発音器官のない蚯蚓の鳴き声としたのだ。
空想的なロマン溢れる季語により、現実生活を笑いとばし楽しんでおられる様子が伝わる。

   夕立の過ぎたるあとの匂ひかな    熊倉和茶

 夕立は夏の蒸し暑い午後、積乱雲が降らせる雨。急に大粒な雨が降り出す。すぐに雨は上がりその後すっかり涼しくなる。街では街路樹の木々、アスフアルト、建物が水に洗われ別世界のよう。山では木々や草が匂い立つ。雨が降る前と気配が一変する。その転換を語られた。

   尻振つて横々歩く鴉の子       石原虹子

 市街地では、鴉は疎まれる身近な鳥だ。だが親子の情愛深く番で子育てをするという。知能が高く社会性もある。
鴉の子は大柄な割には声や仕草が幼く人懐っこい。
掲句では丸い尻を振って跳ねるように横歩きを繰り返す様を楽しげに描いた。臨場感溢れる。親鳥も上空で見守っているのかもしれない。

  鱧さうめんせつかくやから竹の箸   柴田博祥

 鱧は六月下旬からの一ケ月あまりが旬とされ、関西で賞味される。鱧そうめんを検索してみた。鱧そうめんは鱧のすり身を心太状に突き出した物。鴨川の床や貴船の川床料理に出てくるという。ふむふむ、さっぱりと誠に美味しそうだ。
京言葉がはんなりと効果的。竹の箸を添え完璧に涼しそうだ。

  足首のまぶしきことよ夏落葉    川井さとみ

 少女たちは薄着となり、しなやかな足首が良く目立つ。
溌剌とした若さがまぶしく映える。初夏、常緑樹は新しい葉ができると徐々に葉を落としてゆく。
夏落葉は秋の落葉と違い色鮮やかではないが、樹木の成長の証である。

  揚羽蝶ホースの水を潜りけり     新井芙美

 大形で色鮮やかな揚羽蝶。掲句は夏の日差しを受けホースの水を掻い潜っていく揚羽蝶を描かれた。
撒かれる水を潜り、身を翻し、しなやかに飛び抜けて行く揚羽蝶。日差しの中ホースの水はきらきらと輝く。

  ののののとこごみは芽吹く太古から  泉 いづ

 こごみはわらびやぜんまいと並ぶ春を告げる山菜。美味しく食べられる草蘇鉄の若芽だ。形は平仮名の「の」の字状でユーモラスだ。化石の中にも存在したというシダ植物の仲間。太古から人の身近にあった植物なのだ。
掲句はまず、上五の「ののののと」の「の」の連続に目を奪われて楽しい。さらに句中の半分をオ母音が占め軽やかだ。内容豊かに目にも耳にも新鮮。覚えやすく、いつの間にか口遊んでしまう。