草深昌子句集『金剛』特集
特集『金剛』一句鑑賞
大木あまり
草深昌子さんのことを、私はひそかにマダム!と呼んでいる。それは洋服のセンスが抜群に良くて芦屋のマダムのようだから。
そのマダムが句集『金剛』を上梓された。写生の昌子と呼ばれるだけあって、作句の修練によって培われた写生眼の確かな句が随所に見られる。格調の高い句集である。
あれこれ選に迷ったが、独特の視点と遊び心のある二句を鑑賞させていただくことにした。
七夕の傘を真つ赤にひらきけり 昌子
七夕とは、五節句の一つ。天の川の両岸にある牽牛星と織女星が年に一度会う七月七日の夜、星を祭る行事のこと。星祭は子供でも知っている庶民的な行事だが、よく雨が降る。この句は、「傘を真つ赤に開きけり」で雨の七夕の情景を簡潔に表している。傘の色が白や水色では付きすぎだし、趣が無い。「真つ赤に」に艶やかさがあるのだ。シンプルに詠んで鮮烈な印象を与える七夕の句である。
銀蝿を風にはなさぬ若葉かな 昌子
強風で動きの取れない銀蝿が、青い葉にしがみつようにじっとしている。それを発見した作者は、対象を凝視することでこのような一句に仕立てた。着眼点の良さもさることながら、軽妙洒脱。物を見てその「物」に語らせつつ作者の遊び心を感じさせる。なんとも「風にはなさぬ」の措辞が艶だ。
榎本 享
露けしやかたみに払ふ蜘蛛の糸 昌子
草深い径を誰かと歩いていたのでしょう。仲間の髪にくっ付いている蜘蛛の糸に気づいてつまんであげた。「あら貴方にも」と笑いつつ手が伸びて、肩先の糸を払ってくれる。
そんな誰にでも経験のある一瞬を「露けし」という季語がしっとり描き出す。
ささやかな出来事をも心から楽しめる余裕が、昌子俳句の豊かさである。「かたみに」という仮名書きの言葉に、その響きに、人の温もりが感じられる。
夏館ものの盛りは過ぎにけり 昌子
籐椅子も簾も飴色の艶をもつ親しい味わい。ベランダから望む木々の緑も、その枝を吹き渡る風も晩夏の風情。視野に入るものだけでなく、その家の空気も自身の体調さえも、盛を過ぎたという思い。寂しさではなく、全てを肯定し、受容する大らかさなのだろう。
「夏館」をこんな風に詠んだ作品に初めて出会った。読み手に対する信頼が、省略を利かせた深みのある作品を生み出すのだろう。
昌子さんは本当の大人である。純な子ども心を持ち続けている稀有な大人である。
藤埜まさ志
小春人ただ道なりに行けと言ふ 昌子
吟行にでも出掛けていて途中で道を尋ねたところ道なりに行けば着きますよと教えられたという。解りやすいようだが、芭蕉の実質的な辞世の句とも言われている「この道や行く人なしに秋の暮れ」の句に呼応しているとも思える。俳聖芭蕉の「この道」とは当然俳句の道だが、その言葉に昌子さんは「自分は自然体で道なりに俳句の道を歩むだけです」と応えているかのようだ。それは「外の風物とわれわれ自身をも貫く宇宙のリズムに従え」と説く師大峯あきらに繋がる姿勢なのであろう。小春人とは大峯あきらであり宇宙のリズムそのものなのだ。
中村草田男の句に「真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道」ある。白痴とはドストエフスキー的な聖白痴をいうが、その指さす「真直ぐ」は己の信じるところを真直ぐにという己が勝った意味合いが強く、肩肘張っている。ニーチェ的主知的西洋風であり、「道なり」とする昌子さんの東洋的な柔らかい態度とは少し違うように思えて興味深い。
対象へ注ぐ柔らかく独自の視点と把握、無理のない表現、そうだからこそ溢れんばかりの詩情、「金剛」は昌子俳句のこれまでの見事な到達点である。
今後「道なり」の昌子俳句の一層の成熟から目が離せない。
岸本尚毅
晩秋や薔薇の疎らに明らかに 昌子
「疎ら」「明らか」というありきたりな形容無造作に使われている。読者は、晩秋の寂しげな風情をすんなりと感得できる。
この句集の一つの読みどころは、力まずに使った形容詞の巧みさである。
たとえば「やはらかになつてきたりし踊の手」の「やはらか」はだんだんこなれて来た踊り手の動きをよく表している。「だんだん」などという野暮な副詞を使わずに、動詞と助詞だけで「なつてきたりし」としたところも巧い。
「蜂きたり秋の日傘に狂ほしく」の「狂ほしく」も実にピッタリの形容である。「狂ほしく」が生きるためには、上五の「蜂来たり」が無動作であること、また「秋日傘」ではなく「秋の日傘」であることなど、言葉が周到に選ばれていることが必要である。「蜂が来る秋日傘へと狂ほしく」だったら、この句は全然ダメなのである。
「甘茶仏少しく肥えておはしけり」の「少しく肥えて」も良い。だから「おはしけり」という少し気取った言葉が生きるのである。
「鰺刺や紙の如くに白く飛び」の「紙の如く」はもちろん巧いが、「白く」を連用形で使ったちころがもっと巧い。「鰺刺の白きが紙の如く飛び」ではイマイチなのだ。
俳句は技術や巧さより「こころ」や人間性が大切だという声も聞くが、もしかすると、そいう物言いは綺麗事ごとに過ぎないのかも知れない。いわゆる「へたうま」含め、俳句は巧ければ巧いほうがいいと思う。
中西夕紀
金剛をいまし日は落つ花衣 昌子
金剛とは、奈良県と大阪府の境にある金剛山ことで、金剛山地の主峰であり、標高1125メートルの美しい山だ。花の吉野山から大阪の方を眺めると、ひときは雄々しいのがこの山で、夕日の山容の美しさは格別である。
草深さんは、毎年大峯あきら先生と山本洋子先生を中心に集まった晨の同人達と、花の時期の吉野山へ登っている。吟行コースは、桜の開花状況や宿によって変るのだが、観光客の歩くコースはなるべく通らないで、畑の中や、細い山道を自由自在に歩き回る。
そして、そこで生活している人達との会話を楽しみ、時に庭を見せてもらうこともある。私も晨に参加していた数年間この吉野吟行にご一緒させて頂いた。
草深さんは非常に多作な作者である。句会場に着くと、大学ノートを開き、一行も空けずに小さな字で句を一心に書き続ける。やがて、ノートの開かれたページは余白がなくなり、その中から十句を短冊に書き写されるのである。他の人達はというと、歩き疲れてうたた寝をしていたりするのだが、草深さんだけはいつも黙々と作り続けていたように記憶している。
俳句にも関東風と関西風がある。関西風ははんなりした風合いで、関西生まれの草深さんの句は、典型的な関西風であり、流麗で、濡れた艶を見るような語感である。