12月1日の礼拝の内容です。讃美歌は、241.242‣1.280.430.26です。
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礼拝説教 使徒13:4~12「まっすぐな道を歩もう」 2024.12.1
私たちはどのような道を目指して歩んでいるのでしょうか。先週は、1人の姉妹の葬儀を教会で行いました。人の葬儀をする度に、私は、自分はどのような道を目指して歩んでいるのだろうかと問うのです。一般に葬儀をする場合、その人の家族がいろいろなことを決めていきます。しかし、今回はそれがない場合、どうすればいいのだろうと問いかけされました。最近、家族代行という言葉がありますが、そのようなことでした。人にはいろいろな事情を抱えて生きています。でも、いざ人の死となれば、家族ということが大きな要因を持つことになっています。自分の信仰も大切ですが、それを身近な人にどのように伝えて関わっているのかということをもう一度考えることが必要性を感じています。
教会暦は今日からイエス・キリストの誕生を待つ待降節、アドベントに入っていきます。クリスマスを待つ時を迎えています。使徒言行録を読んでいます。使徒13章は、大きな展開をしているところです。使徒12章までは、イエス・キリストの福音がユダヤ人に伝えられていくことが書かれてあります。そして、使徒13章からは、異邦人へイエス・キリストの福音が伝えられていくのです。アンテオケ教会が誕生しました。このアンティオキア教会は、最初の異邦人教会として建てられていきます。そして、このアンテオケ教会が異邦人伝道の拠点教会となっていきます。教会の人々が神を礼拝し、断食をしていますと、聖霊が教会の人々に告げるのです。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって2人に決めておいた仕事にあたられるために」と。そこで、教会の人々は、断食して祈り、バルナバとサウロの上に手を置いて出発させるのでした。これがパウロによる第1回伝道旅行の始まりです。
パウロの第1回伝道旅行は、キプロス島を目指して進んで行きます。聖霊によって送り出されたバルナバとサウロはセレウキアに下り、そこからキプロス島に向けて船出し、サラミズに到着すると、すぐにユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせるのです。パウロの伝道旅行を見ていますと、新しい地に行くと、最初にユダヤ人の会堂から伝道を開始していることが分かります。パウロの異邦人伝道といっても、必ずユダヤ人から始めていくスタイルは変っていません。ユダヤ人に語り、それから異邦人へと伝えていくのです。キプロス島全体を巡って、パフォスまで行きますと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという1人の偽預言者に出会います。ユダヤ人でありながら、魔術師であるということが不思議な感じします。神の民であっても、そのような人物がいることに人間の弱さを感じてしまいます。この魔術師は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していたとあります。総督は、そこでバルナバとサウロを目招いて、神の言葉を聞こうとしました。魔術師エリマ、彼の名前は魔術師という意味であるとあります。このユダヤ人の魔術師は、バルナバとサウロに対抗として、地方総督を、イエス・キリストの信仰から遠ざけようとします。おろらく、ユダヤ人の魔術師は、自分の今までの総督の関係がなくなってしまうと恐れたのだと思います。自分の安定した地位を失うことを恐れたのです。
ここで、パウロとも呼ばれていたサウロという言葉があります。ここからサウロという名前からパウロという名前に変わっていきます。イエス・キリストの福音がユダヤ人から異邦人に伝えられていく流れで、パウロという名前に変わっていくことには大きな意味があります。パウロによる異邦人伝道が本格化しているということです。パウロは、聖霊に満たされて、魔術師をにらみつけていいます。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手がお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と。するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探しました。
総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入ったと書いています。総督がイエス・キリストの信仰に入ったことは素晴らしいことです。しかし、私はここで、パウロはユダヤ人の魔術師に深い思いを重ねていたのだと思います。この迷えるユダヤ人の魔術師は、実はかつてのパウロその者だったからです。魔術とユダヤ教の信仰と比較することはできませんが、イエス・キリストの福音と考えてみると、同じような気がします。このユダヤ人の魔術師がどうして、このような状態になったのかは分かりません。神の民、ユダヤ人が魔術師となって、歩んでいることに深い悲しみを覚えます。この魔術師は、パウロとの出会いによって、目が見えなくなってしまい、だれか手を引いてくれる人と探すようになります。それは、目が見えないだけでなく、神への信仰ということでも見えないということです。
使徒言行録において、パウロの最初の登場は、ステファノの殉教の場面です。ユダヤ人がステファノに石を投げている間に、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いています。(使徒7:58)サウロはステファノの殺害に賛成していました。(使徒8:1)使徒9章にはサウロの回心のことが書かれてあります。サウロはキリスト教徒を脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めています。それは、キリスト教徒を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためだったとなっています。パウロの最初は、熱心なユダヤ教徒でした。イエス・キリストを信じる者を迫害することが、神にとって正しい道だと信じて疑っていませんでした。
そのパウロを、イエス様が呼びかけるのです。突然、天からの光がパウロの周りを照らします。パウロは地に倒れてしまいます。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞くのです。パウロが「あなたはどなたですか」というと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」とイエス様がいいます。パウロは地面から起き上がって、目を開けましたが、何も見えませんでした。周りの人々はパウロの手を引いてダマスコに連れて行くのでした。パウロは3日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったのです。そのダマスコで、キリスト者であるアナニアに出会います。アナニアはパウロの上に手を置いて「兄弟パウロ、あなたがここに来る途中に現れてくださったイエス様は、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」といいます。すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、パウロは元どおり目が見えるようになり、身を起して洗礼を受け、食事をして元気を取り戻すことができました。
パウロはこうして、ユダヤ教徒からキリスト教徒に変えられていくのです。パウロがエルサレム教会に来た時には、教会の人々はパウロを恐れて近づきませんでした。それを仲介したのがバルナバです。この後、パウロは故郷に戻ってしばらく休み時を持つのです。その後、アンテオケ教会が誕生して、その活動が知られて、エルサレム教会からバルナバが派遣されていきます。バルナバはアンテオケ教会が誕生し、成長している姿に感動しています。バルナバはこれからのアンテオケ教会のためにパウロの手が必要だと感じて、わざわざパウロの故郷にいって、パウロをアンテオケ教会に連れて来て、丸1年間、一緒に多くの人々に教えていくのです。そして今や、聖霊によって、パウロはバルナバと共に第1回伝道旅行に出て行くことになっていくのでした。
聖霊はこのようにパウロを導きました。迫害者から伝道者に変えてくださったのです。このキプロス島の宣教で、パフォスにいたユダヤ人の魔術師は、パウロと出会いました。パウロによって、厳しい言葉をかけられて、目が見えなくなってしまいました。魔術師は、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探していきます。このユダヤ人の魔術師の手を引いてくれる人は見つかったのでしょうか。魔術師のその後については、使徒言行録は何も書いていませんので、正確なことは分かりませんが、私は想像するのです。パウロにとってのアナニアやバルナバがそうだったように、魔術師も誰かと出会い、キリスト者になって、イエス・キリストを伝えて行く者に変えられていったのです。この人から多くの異邦人がイエス・キリストの福音を聞いて、信じて洗礼を受けて、教会に加わっていったのでしょう。パウロも魔術師も最初は、神へのまっすぐな道を歩むことができませんでした。でも、イエス・キリストと出会い、全く新しい人に変えられて、神へのまっすぐな道を歩むことができたのです。
私たちも最初はどうだったのでしょうか。でも、人生の途中で、キリスト者と出会い、イエス・キリストの福音に触れて、洗礼を受けて、今は信仰生活を送っています。私たちの道はまっすぐです。イエス・キリストの十字架を通して、神の国へと目指して、まっすぐな道を歩んでいくのです。1人の姉妹の死と葬儀において、改めて、神の国へとまっすぐな道を歩んでいるのです。
祈り 神よ、あなたのことをこのように礼拝することができましたことを心から感謝します。1人の姉妹の死と葬儀を振り返りながら、私たちの歩みべき道のことを考えて来ました。私たちがまっすぐに歩む道が見えています。どうか、その道から離れることがありませんように、また迷った時には、もう一度、その道を見い出すことができるますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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