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気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

【備忘録:2023年故郷帰省記録&故郷の食べ物の記憶】

2024-04-10 17:39:20 | 日記

”三つ子の魂百まで”とはちょっと違うかもしれませんが

 

中学校を卒業と同時に進学で生まれ故郷(東三河:豊橋)を離れたこともあって

思い入れも人一倍強く、”三河人”であることを誇りに思って生きてきました。

生まれはどこですか?と問われ

『愛知県』と言うと、すぐに「あぁ、名古屋ですか」と言われるのが

虫酸が走るほど大嫌いなのが三河人なんです。

 

〔三河人気質〕

質実剛健、派手さはなく、スタンドプレーは苦手

”実直” ”愚直” ”剛直”


そんな訳で 

数年まえに帰省した時に

昔から東三(東三河)事務所と呼んでた県の支所で

”東三河県庁”との看板をみつけて思わず万歳三唱


いや~、ようやく独立してくれたかぁ と、『ある訳ない』と思いつつ

ぬか喜びしちゃいました

 

『故郷は遠きにありて思うもの』的要素も多分にありますが

幼少の頃から遊んでいた野山に対する郷愁感

子供の頃から食べてたものに対する愛着などなど

浦島太郎の心境で

より故郷への想いが深くなった気がします。

 

そんな心境にありながらも42歳までは

東京や大阪での会社勤めに海外赴任、出張漬けで

毎年、盆暮れの年に2度ほどの帰省しかできませんでしたが

 

約25年前に起業してからは比較的自由に時間を作れるようになったことと

24年前に母が脳梗塞で転倒して寝たきりになったため

その見舞いを兼ねて

一時は月に2回のペースで日帰りするほどで

 

母が亡くなってからも

ちょくちょく日帰りでも帰省していたのですが・・・

 

異母姉5人を含む7人兄弟の中でも

最も仲良しだった四女の姉が5年前に亡くなり

次に仲良しだった五女の姉も後を追うように10月後に亡くなってしまい

兄嫁も突然大病がみつかり闘病していたこともあって

ここ数年は すっかりご無沙汰😭

 

なんと、昨年の2023年はダイアリーを調べてみたら

阿部寛主演の映画”異動辞令は音楽隊”を観て

 

突然、昭和のオンボロお好み焼き屋に行ってみたくなり

年末から半年以上過ぎた

7月25日に訪ねたものの 既に閉店後

諦めきれず8月5日に東京出張のついでに

その店でお好み焼きが食べたいとそれだけの目的で立ち寄ったものの

長年関西で暮らしてきた人間にとっては

『よくこんな不味いお好み焼きで店やってるなぁ』との印象(ゴメンなさい


昨年は😫そんな出来事もありました。



ついでなので

豊橋&東三河の代表的な食べ物をご紹介すると

ここ20年ほど

帰省したら必ず食べると決めていたのが

“あんかけスパ” 

近年、隠れた地方のグルメとしてだったのか

テレビで豊橋っ子のソウルフードと紹介されてしまったため

全国からキャリーケースをガラガラと引きずりながら

新幹線で途中下車してまで食べにくる始末。

↓(これはコロナが騒がれだした頃の画像)

続いて豊橋っ子のソウルフ”むらたのたこやき”

その昔、豊橋駅前にあった百貨店丸物の屋上にあった観覧車やその他子供向け遊具の広場の片隅の

掘っ立て小屋で売られていた”たこやき”(醤油と紅ショウガ味のみ)

子供の頃は、3ケ10円だったのが2ケ10円になり・・・

値上げとともに

高度成長期を実感したものだったなぁ(ウソコケ)


続いては、昔の駅構内にあった立ち食いうどん屋(壺屋)の人気メニュー”きしめん”

昔は当然のことながら陶器の器で
東口の改札から構内に入ったところにあって

中学を卒業して進学で豊橋を離れてから

鉄道で帰省する度に

冬になるとモウモウと湧き上がる湯気に誘われてよく暖簾をくぐって食したものでした。


その昔は、豊橋が”うどん”と”そば”の境界と言われていて

たしかに近所で主に出前専門だった店の暖簾も”生そば”


ところが、”にかけうどん”という

うどんがこれまた東三河っ子のソウルフードで

生家でも、昼時に訪問者があると

気楽に出前で注文するのが”にかけうどん”

 



その“にかけうどん”

かけうどんに、かまぼことほうれん草、たっぷりの刻み油揚げに

ネギとこれまたたっぷりの花かつおが載せてあって


しっかりした辛味のある一味唐辛子🌶が

似合う鰹出汁なんですが


電話で注文すると

店のオジサンが黒い実用自転車で掛け持ち片手に持ってきてくれるのですが

家に到着したころには適度に伸びてるので

子供の頃にすっかりその伸び加減が刷り込まれてしまい

店で食べるとまだ腰があってシコシコしてるのが別物のような気がしてしまい

うどん=八千代(その店の名)の出前だな

閉業してしまってからもいつまでも懐かしく思い出したものでした。

 

そう言えば、我が家(生家)

お客が多かったからか何かというと出前を頼んでたなぁ

 

おやつ代わりに頼むのが、この”八千代”のにかけか和風中華

夏はひやしうどん

父母が旅に出る時は、食事代を預かって

大学前にあった”入口屋”のカツ丼(兄は天丼)


おめでたい時や大事なお客さんには、

近所の寿司屋”ふくす司”から桶か自分は鉄火丼(兄はちらしだったような)

 

 

外食も好きで家族連れの時は

豊橋駅前での定番が常盤通の中華(台湾)料理”天華”

(私は天津麺か五目ソバに焼売でしたが、誰かの誕生日には個室でコースも定番でした)

駅前大通りの”アンデルセン”でインディアンスパゲッティ

とんかつは広小路通りにあった”全楽”

ざる蕎麦は松葉通りの札木近くの店でしたが名前は忘れちゃったなぁ

あと、法事とかの後には菜飯田楽の老舗”きく宗”

(大人になってからは、豊橋の実業家“磯村弥八”さんの経営するグループが、豊橋の繁華街の中心、広小路通りの常盤アーケードの入口の2階に開いた菜飯田楽の店“いちょう”が定番となったしまいましたが)


ひゃ~懐かし~

 

 

 

あと奥三河名物の五平餅も

帰省したら食べたくなる一品

店によって味が異なりますが赤味噌に砂糖に胡桃や生姜などを加えていて

これがまた美味しいんだなぁ

 

 

そんな訳で

この年は12月29日に帰省としたのですが

豊橋(&東三河)への移動中は

着いたら何食べようかなと頭の中は食べ物一色

 

今回は、東名(湾岸線)を豊明ICで下りて国道23号線で蒲郡に向かったところ

年末とあって今現在高架道路の終わる蒲郡で大渋滞

あんかけスパのチャオ本店は前述のとおり変に有名になっちゃって大行列必至だなと諦め

ネットで豊川にできたメガモールにも開店したのを見つけ

国道1号線 に移り

小学校の同級生が院長兼経営する豊川の総合病院の看板を眺めながらメガモールに入り

久しぶりに店名と同じチャオ(ポークピカタ載せ)を注文

タッチパネルで便利になったけど、元々ずっと昭和レトロな社風だったから違和感あったなぁ

 

この日は小学生時代の同級生との忘年会が目的の帰省

豊橋駅西口のビジネスホテルを予約していたため

車を預けて豊橋駅に向かい

ここ10年ほど年末・年始の恒例としてる小学校5-6年生時の同級生で

みんな大好きだった恩師のお宅へご機嫌伺いにお邪魔して

(コロナ前までは食べ物・飲物持参で歓談しながら会食してたのですが、コロナで断念)

御年93歳だったかな 相変わらず頭脳明晰で、その上挨拶を終えて帰ろうとすると

大きな敷地の家の門までスタスタと歩いて見送ってもらい

みんなビックリ

(右端がその総合病院の院長)


その後、毎年恒例の忘年会(以前は年始会)となったのですが

年末でどうにも店がみつけれず

菜飯田楽の店に向かい瓶ビールでの会食となりました。

その後、スタンドバーでウダウダと歓談してからお開き

(総合病院の院長は、入院患者が急変したとの電話が入り途中退席)

翌朝は晦日だったので

家族に恒例のお正月の食材を仕入れて帰るからと伝えていたため

帰省したら必ず立ち寄る 豊橋っ子の台所(スーパーサンヨネ)で

大好物の舞阪漁港(浜名湖の河口)の魚介類と生鰹を買いたかったのですが

年末とあって カニやマグロだらけで断念

(↓これは、12月17日に姉兄のところを訪ねがてらお歳暮の注文に帰省した時のものです

夏は生ウナギ、その他の季節は

三河湾の浅利、生鰹、ワタリガニや

赤味噌、花鰹などの食材を買い求めるのですが


これまた必ず土産にしている

魚町通りに本店のある

練製品の老舗でオデンネタを買い

ネットで知った青果市場の小売りコーナーに向かい

お雑煮用の野菜をたっぷり仕入れ

両親の眠る墓地で線香を手向けてから

渥美半島の太平洋側を走る国道42号線をひた走り

途中、赤羽根漁港で小休止

漁船も新年を迎える準備をすませてました。

その後、伊良湖岬に向かう途中

昔は団体バスの観光客で賑わった渥美フラワーセンターの跡地に植えられて菜の花を愛で

お昼は、伊良湖名物の大あさりを食べるぞ~

と恋路が浜の食堂に行ってみると

な、なんと焼き大あさりが1,200円と聞き

ボッタクられてたまるかと諦め

フェリー乗り場の道の駅で何か食べようと思ったら

ただの”あおさうどん”が30分かかると言われ

あっさり断念

(普段は閑散としているため人手が足りず注文を受けれない様子😓)

(人手不足の現実を目の当たりに)

売店はお土産物ばかりで なんとか買えたのが カップやきそば

 

あまりのショックに完食するのに相当苦労しました。

そして失意のままフェリーに乗り込み

鳥羽に到着

あえて旧鳥羽街道を抜けて母校の前を通り

昔、旧艇庫があった跡を眺めながら

この日は素直に家路につきました。。。

 

この旅のログはこんな感じ↓

たったの走行距離462.12kmに32時間そこそこ

ところが何か疲れちゃったんですよ~

 

さて、2024年は何度帰省できるのでしょうか

 

体力的にも以前のように車での日帰り帰省はもうできないだろうし

親族も年々減少してモチベーションも下降気味

 

このままではダメだなと己に喝を入れた次第です。

 

すっかり枯れ爺さんになって、欲が無くなったのがいけないんだろうなぁ

なんとか帰省の楽しみを作らなければ

 

 


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