秀吉VS勝家-賤ヶ岳・2-

2013-05-10 22:07:10 | 歴史あるトコ-滋賀

1582年6月21日(天正10年6月2日)、

京都・本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣・明智光秀に討たれます。

これが有名な「本能寺の変」です。

 

その後、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉が京にもどり、光秀は迎え撃ちますが、

坂本に落ち延びる最中、百姓によって刺し殺されたとも、自刃したともいわれます。


秀吉は光秀を討ったっことで信長旧臣の中で大きな力を持つことになります。

そんな中、当主を失った織田家の後継者を決定する会議が行われ(清洲会議)、

信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と、

織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しく対立します。

結果、秀吉の推す三法師に決まり、さらに秀吉の主催で信長の葬儀が行われました。

 

織田家の政治主導権を握る上での意見の相違から、武力衝突に発展していきます。

柴田勝家と羽柴秀吉は、各勢力を自分の陣営に引きこむ為の動きを見せますが、

秀吉は勝家が雪のため越前から身動きできない12月、長浜城を包囲し、降伏に追い込みます。

 

雪解けを待って勝家は、越前北ノ庄を出発。

余呉湖畔に勝家軍と秀吉軍がそれぞれ布陣。

これが賤ヶ岳の戦いです。

 

・・・まぁ、その後ここで、いろいろな戦いが繰り広げられたわけで・・・・

 

最終、勝家は北ノ庄城に向けて退却。

その後、勝家は夫人であるお市の方(織田信長の妹)と共に自害。

三人の娘、茶々・初・江の3人は秀吉に保護されることになります。

のちの淀君・京極高次室・徳川秀忠室の「浅井3姉妹」のことです。




 

さて、山頂に到着すると見えるのは、眼下に広がる琵琶湖!

最━━d(●゜∀゜●)b ━━高

ちょうど1本だけ立つ木の上に、竹生島がみえます。

 

 

 

そして山頂には・・・・・

なんか、人、いっぱい!

 ツアー?の団体さんがいました。

 

 ここは秀吉が指揮を執った砦跡です。

 

 

3につづく・・・・・

 

 

 



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