福井県三方上中郡若狭町
ナビに表示された「西塚古墳」の文字に引かれ、
急遽、左折!
脇袋古墳群!
若狭の国造である「膳臣」一族の墳墓と考えられています。
5世紀ごろの築造で、上之塚古墳➔西塚古墳➔中塚古墳の順。
上之塚古墳はキレイ前方後円墳!
そしてナビに記されていた西塚古墳。
本来は前方後円墳でしたが、今は後円部を残すのみ・・・
数多くの副葬品が出土したようです。
気になったのが・・・・
「日本書紀の記載と出土品の符合から、膳臣斑鳩その人ではないかとされています。」
膳臣斑鳩?
若狭は古くからの「御食国(みけつくに)」といわれ、
皇室・朝廷に海水産物を御食料(穀類以外の副食物)を貢いでいました。
そして膳氏は、皇室や朝廷の御饌(みけ)を担当した伴造氏。
景行天皇の東国行幸の際、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと、膳氏の始祖)が蛤を捕り、
料理をして献上したところ、天皇の子孫代まで御食を供するよう「膳臣」を授かったといいます。
膳臣斑鳩 = 膳臣傾子(加多夫子)
日本書紀に欽明天皇の時代、「越国で高句麗の使者を接待するため派遣された」とされる人物です。
さらに「膳氏」といえば、思いつくのが
膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)
聖徳太子の妃の一人です。
そう膳臣傾子の娘なんです。
ただ問題が一つ。
西塚古墳の築造は5世紀後半・・・つまり470~490年頃。
菩岐々美郎女が聖徳太子の妃になったのが598年。
実娘か? 養女か?という説に当てはめても・・・
膳臣傾子の生年が5世紀後半~6世紀初頭頃。
時代が合わない・・・・
毎度のことながら・・・・
まぁ、推古天皇以前の時代は不明なのがほとんどですからね・・・
微妙なズレがあるかもです。
そういうことにしときましょう!
一度、行ってみて
福井県三方上中郡若狭町 脇袋古墳群