先日、1月15日。
明日香村の小山田遺跡で巨大古墳の墳丘の一部と
濠の跡が見つかりました!
場所は養護学校の敷地。
左手に見える板状の石組みが墳丘の一部だそうです。
さてさて、何がすごいのか・・・・というと
(ayaka的見解です)
★★★ その1 ★★★
それは遺構の状況や地域の地形から考えると、
一辺50mを超える方墳だというのです。
おなじみ石舞台古墳
蘇我馬子の墓と言われている古墳ですが、
本来はこの上に封土があり、一辺50mの方墳だったんです。
この古墳より大きな方墳というわけです。
残念ながら、全国1位ではありません。
もっと大きな方墳はあります・・・・
★★★ その2 ★★★
所在地不明だった滑谷岡陵ではないか!というもの。
日本書紀には・・・・
舒明13年10月9日 舒明天皇が崩御。
皇極元年12月21日、滑谷岡(なめはざまのおか)に葬った後、
同2年9月6日、押坂内陵(おしさかのみささぎ)に改葬された。
・・・・と記載があります。
規模、築造時期、そして押坂内陵にも使われている榛原石を使っている事で、
滑谷岡陵の可能性がある!ということなんです。
★★★ その3 ★★★
いやいや、実は蘇我蝦夷の墓・大陵だ!という可能性もあるんです。
築造時期が「7世紀中頃」
そしてその側にあるのが、甘樫丘と菖蒲池古墳。
蘇我の邸宅のあった甘樫丘。
そして蘇我蝦夷が双墓を作り、1つを蝦夷の墓・大陵、1つを子・入鹿の墓・小陵としたこと。
つまり、菖蒲池古墳が小陵で、今回発見された方墳が大陵ではないかというのです。
前方後円墳が無くなる7世紀・・・豪族たちの墳墓の形として採用されているんです。
近くに馬子の墓だという石舞台古墳。
その側に有料駐車場がありますが、ここは「島庄遺跡」
馬子の邸宅、そして草壁皇子の「嶋宮」があった場所と見られています。
ということは、築造時期も7世紀中頃、
蘇我の邸宅のあった甘樫丘のそばに、
蝦夷・入鹿の双墓があってもおかしくない!
さてさて、今後の調査に期待です!
1/18(日) 現地説明会があります。
ご興味のある方は是非!
詳しくはこちらに
↓ ↓ ↓
http://www.kashikoken.jp/from-site/2014/koyamada_annai.pdf