自我とはなんだろう?とたまには考えてたいものだ。
自我で忘れてはならないは恐怖症だろう。
恐怖症をネットの検索でしらべてみるとその多さにびっくりする。たぶん数百はあるだろ。
もしかしたら数千かもしれない。
〈毒〉-〈死〉-〈ミシンの針〉
私は3、4歳のころ甘いお菓子がだいすきだった。あるとき兄がこそこそっと耳元で囁いた。
「お菓子の中には毒が入っているかもしれんからきおつけろ。」
私はそれをそのまま信じてしまい、それ以来菓子をたべなくなった。母親はいい子だとほ
めてくれた。
このことは私の脳裏に毒恐怖症として残り、50年ぐらい消えなかった。
それから〈死〉というものを意識するようになり、ちょっと考え込むと「人はかならず死
ぬんだ」と同じことばかりを考えそのツボの中にはいったきりなかなか出てこれなかった。
小6の頃だったと思う。(あるいは中1か)家庭科の授業のなかでミシンの実習があった。
そのときひとりの女の子が自分の手の指を針でさしてしまい、不運なことに手を引いてし
まった。
ミシンの針は折れてしまった。
これ以来私はこのことが頭にこびりつき、その状態を想像しては恐れるようになった。
恐怖症はひとつ思い出すと芋づる式につぎつぎとでてくる。みんな過去の記憶の中でくっ
ついているようだ。
――ところが恐怖症がまったくない状態を考えてみよう。平和でいいが認知症の初期段階
といえるかもしれない。
自我がさまざまな恐怖症を持っている(記憶している)ということが自我を作り、自我の
大切な持ち物なのだ。