230628_自我とは14〈記憶と自我〉
人生の中にはさまざまな記憶が眠っている。
しかし、いろんな場面で出てきては自分というものを支えてくれる。
もしそういった記憶が支えてくれなければ、「自分」というものは薄っぺらなものに
なってしまうだろう。
似たような記憶はグループを作っており、そのなかのひとつを思い出せば関連した事
柄も容易に引き出せる。
*O製作所でのある場面を思い出した。1978年ぐらいの記憶だ。
その会社は夫婦でやっている小さな会社だった。私はそこで基板の検査の仕事
をしていた。ある日の残業の時、おやじさんが先に帰った。私は欲しかった電
卓の基板があったので、検査の仕事をやめ、隠して置いた電卓の基板を取りだ
し、動くように配線した。
社長が出ていって、3分ぐらいで戻ってきたのだ。私はふいをつかれ、秘密の
電卓基板を隠すことも出来なかった。
硬直した私の後ろから何かを言って再びでていった。
「仕事をやっていなきゃいけないのに、ばれっちまった!」という思いが残っ
た。
似たような気まずい瞬間は何度かあった。
こんな事を思い出していたら、O社で働いていたときの事を思い出した。
1972年頃から1985年ぐらいまで働いた。
その時代は電子技術がトランジスターからICへかわり、マイコン時代へ入っ
てゆく過渡期だった。
コンピュータゲームが出てきたのもこの時代だ。
ドルビー回路も1972年頃はまだお札ぐらいの基板だった。トランジスター
と抵抗、ダイオードで作られていた。
とくに楽しかったのはパートとして来た人たちといっぱいおしゃべりをしたこ
とだ。カラオケなんかもよく行った。
・・・・・・
という風に思い出していたらきりがないほどその時代の記憶はいっぱいある。そこでの
記憶の中でとくに今の自分作ってくれている記憶がある。
それは技術者として誉められた記憶だ。私の事をよく評価してくれたのは親会社の人た
ちだ。
Aさんは私の不良対策書を誉めてくれた。
Bさんは技術を誉めてくれた。
Cさんは私がトランジスターが破損する事故の原因を突き止めたことを誉めてくれた。
・・・・
O社をやめて、T社に入った時もなぜだか親会社の人に誉めてもらった。
・・・・
こういった、誉めてもらったという記憶が今の自分を支えている。
反対に自分否定の記憶もある。
つまりそれは他人とトラブルをおこした記憶だ。中には自分はまったく悪くないのに、と
いう記憶もある。
ついこの前まで、4年間いた板金の会社での記憶も自分をささえている。なれない職場だ
ったので否定の記憶もあるが、自分の支えとなる記憶もある。
ほとんど人間関係に関する記憶だ。
他人に誉められた記憶が自分を高めようとし、叱られた記憶が自分を抑えようとする。
今のところこの二つがだいたいバランスがとれている。
自我を一本の杉の木だとしよう。
自然環境の中にも肯定の要素と否定の要素とがある。
肯定は太陽の恵みや、適度な雨、そして多種多様な生物環境。
否定は嵐や洪水、地震などだ。つねに杉の命を脅かす要素だ。
*人間社会にも否定の要素は多い。巨大権力やイジメがそうだろう。
巨大権力は「個人の自由」というもの「生きる権利」を生活の保障というかたちで脅かす。
つまり「お前の生活は保障する、そのかわり俺の命令に従え、」というわけだ。
イジメはピラミッド的な社会から少しでもはみ出そうとする人を攻撃することだ。
ときにはみ出すことが命取りになる場合もあるのだ。
そういったイジメと闘う所に自分というものの存在性がある。
それは杉の木が自然の災害と闘って生き延びるようなものだ。
(生きるための自分作り)
自分というものが記憶にあるとすれば、自分を変えるには記憶を変えてゆけばいい。
今現在も時がすぎれば記憶となる。
つまり、今現在の行為を変えればいいのだ。
いちばん簡単なのは呼吸の記憶をかえることだ。といっても無意識がやっていることだから
簡単にはかわらない。
<呼吸の記憶>
こんな単純なことを記憶しているだろうかと思われるかも知れない、実は記憶しているのだ。
記憶しているからこそ、落ち込んでゆくと呼吸も悪くなってしまう。
酸素を充分に吸わない呼吸に慣れてしまう。
時にお腹で大きく呼吸をし、言葉を休ませ、瞑想を楽しむ、こんな簡単なことでも我々の無
意識はこの事を記憶するのだ。
いつも「焦りにおわれている」という記憶を残してしまうと、その記憶がさらに我々を追い
込んでしまう。
<チリアカの記憶>
自分の身のまわりを見てみよう、なんでもないものが悪い記憶の元になっている場合がある。
生活が乱れてくるとあらゆるチリアカがたまってくる。生活空間が生活にうずまってしまう
ということも起こってしまう。
「かたずけられない」ということで家の中をほったらかしにしておくと、それが自分を否定
する記憶として蓄積する。
生活の中に自分肯定の記憶を残すと言うことが大切だ。
<空間の記憶>
空間を少しでも空間として意識すること。絵に描いてもいいし、写真にとってもいい、散歩
で河原に出てみるのもいい。空間を意識すると言うことはそこで深呼吸してみればいい。
そのとき空間が記憶され、自分のベースとなるだろう。
追いつめられた人は空間の記憶がほとんどできなくなり、自分の置き場を失ってしまう。
失業していても、(私のように)空間記憶さえ忘れなければ、生きて行ける。
お腹で大きく呼吸(腹式呼吸)をすることがその記憶のスイッチをONにすることなのだ。
シャッターを押すように。
<呼吸は歌に>
呼吸を自然に発展させたものが歌である。
我々は、現代のようにテクニックばかりの歌ではない、原始的な歌をもっている。それは
呼吸の延長上にあるものだ。
「あ」だけでもいい。まず呼吸といっしょに自然な「あ」を発音する。これだけでもいい。
なれてきたらちょっと大きく息を吸い込み「あー」と長く言ってみる、そして空間へその
音声が広がって行く、というイメージを持つ。もちろん腹式呼吸で行う。
つぎに、最初の「あー」と音程を変えた「あー」を連続して出してみる。「ドー、レー」
でもいい。
こういった試みをすることが新しい自分を作るための記憶となるのだ。
我々の無意識はこういった試みが大好きで、「待ってました!」とばかり取り入れる。