220726_大都会の悪知恵〈排除ベンチ〉
まず、去年の9月13日に書いた文を
ひとりちいさなベンチで……
涙のような雨がふり、
いつしか冷たくなってゆく
小さな狭っ苦しいベンチ
彼女にだけ許された場所
もっと広々としたところで眠ってみたい
足を思い切り伸ばし
もっと優しさの溢れた場所で
小さなバス停のベンチでわずかな暖かみを夢に見る
華々しく活動していた時代が
まるで嘘のように蘇る
そんな小さな存在を許さぬものが
──突然夢の殿堂は打ち破られ、
血の海に
突然火花が飛び散り、地面が傾き
大地にふんわりと激突する
だれひとり救いの手をさしのべるものなし、
そんな世界だったのか
そんな娑婆だったのか
出勤という名の電車を走らす
その人にとくべつ目を止めたものは
異常な感情の持ち主だけ
──かってな感情の始末屋
すでに心のなかで犯罪を犯している
それを実行しただけ
やつはいつのまにかそんな世界へと行ってしまう
ちょっと導火線に火をつければ爆発してしまう世界へ
だれも彼女に気づかず守らなかったため、
実行という火を点けられてしまった
──後から花束を山盛りにしたところで、
もうその人は帰ってこない
あとになって、記憶の中に出てくる複数の彼女たち
──そういえばこんな人もいた
あんな人もいた
彼女たちは助けを求めていたのかもしれない
冷たいまなざし、
異常視するまなざし、
やがて自分もそのまなざしで見られるかもしれない
いや、ときどきそんな思いが
中身をまちがって書き、糊付けしてしまい
あわてて剥がそうとしたが破れてしまった便箋の端くれのように
ちいさな狭いバス停のベンチでひとりの人生が閉じられた
憎むべきは犯罪者なのだろうか
いや、毎日向けられた蔑視の視線
犯罪者はそれを妄想に膨らませ、
実行しただけ
その隙間を自分のために利用しただけ
ひとりでもやさしく話しかけていたのなら、
その隙間は閉じられていたのかもしれない
犯罪に妄想が
辿り着く前に救いの手を、
と自身にも問う
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「排除ベンチ」または「排除アート」という言葉があることをごく最近知った。
正直の所たった今だ。
彼女のことをもう一度しらべてみようと検索したところこんな記事が載っていた。
64歳の女性は座ったまま夜を過ごしていた…座りづらく、
仕切りのあるベンチが増える「排除の理屈」
彼女を死に追いやった理不尽な行為、「なんでそんなことをしたのか」という
疑問の答えがわかった。
それが都会の悪知恵というやつだ。
都会のホームレスをなんとか追い出そうという悪知恵が排除アートになったのだ。
殺害者はそういった雰囲気を妄想にまで発展させ凶行におよんだ。
もしみんなで助け合おうという雰囲気があれば、決して妄想は膨らまなかった。
彼女にも助けの手がおよび、いまでは幸せな生活を送っていたのかもしれない。
ちなみに川崎のバス停はゆったりと座れる、寝る幅もある。