脳のミステリー

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180.人の悩みと解決法

2007-06-24 06:19:26 | Weblog
 人間には心があるから悩みもある。心の紐を解くのは容易ではない。私という人間は障害を受け入れる前まではプラス志向だった。だから、必ずやマイナスになる悩みも常にプラスに方向付けようとしてきた。努力はしなかったが、自然体で前進してきた。生の人間だから深刻な悩みも数多くあった。だが、倒れる寸前も悩み多き50代だった私は突然、前触れもなく、本当に自然の法則に従わなくてはならなくなってしまった。自然体を豪語してきた私が初めて戸惑いを感じ、今もそれが続いている。そして恐らく、この、どうしようもない戸惑いは一生続くだろう、と確信している。
 私は右半身不随の後遺症を受容してから、たくさんの療法士に会ってきた。みんな夫々に個性的で様々な対応の仕方があるものだと思っているが、色々な療法士が自分好みの人であるように望むなら、結局は自分自身の姿勢が尤も肝心なのではないかと私は思う。自らが心から信頼して任せれば、どんな療法士でも私の信頼に応えようとするだろう。応えてくれたら、私は感謝し、絶賛するだろう。その繰り返しが、私に安堵感を与え、更に信頼感が増すという訳で、一方、療法士は自分の療法に自信を持って、更に向上するだろう。
 こんな私の考え方を一例に挙げても、私自身はアドバイザーになれてもカウンセラーにはなれない、と明言できる。リハビリの度に、私は「こんなに大変な仕事、私には到底出来ない!」と思ってしまうのである。私らしく考えると、療法士はアドバイザーであると同時にカウンセラーでもある面がないと難しい仕事だとつくづく思うのである。
 様々な診療を経てやってくる患者は色々な症状を訴える。療法士は必ずしも患者の口から直接悩みや症状を聞く事が出来るとは限らない。言語障害の患者もいる。自分の症状を細かく把握していない患者もいる。昨今は母語の違いで日本語が分からない患者もいる。私のいう優秀な療法士は「聞き手」とか「視て手」に徹する人という事になる。「どこが悪いのだろう」とか「痛いのはどこだろう」とカウンセラーのように分かると、直ちにアドバイザー兼セラピストになるのがいい療法士だと私は思う。
 一般的には、医者はダメな部分を治すのが仕事という事であるが、療法士は大変だ。理想的な既婚女性じゃないけど、信じられないほど何役も引き受ける事になる。女は字の通りに「女として良い娘時代」を過ごしてきて、「他家に嫁ぐ」と突然、大忙しの嫁になる訳だ。可愛い女は名称を妻に変えてもいつまでも男の恋人であり、母親になって家の仕事は家事、育児と膨らんでいく。でも、聡明で愛情溢れる女性は逞しくそれを遣って退ける! では、よき療法士とは毎日のリハビリを通して私が垣間見る限りはカウンセラーであり、アドバイザーであり、セラピストである、という訳だ。
 私は、やっぱりカウンセラーにはなれない。私は悩みを聴いている内に「こうしたらいいのに!」とすぐにアドバイザーになってしまうのだ。確かにそうでもカウンセラーの立場では本人の意向を最も重視するという訳だろうか。私には「こうすれば上手くいく」という考えが脳を占めて、先に進まなくなるだろう。
 自らの仕事を考えても、これまでの語学指導者、外国人相談、とくればアドバイザーの色が濃くなる。脳卒中発病後に復帰した仕事は美術館関係、とくれば確かにカウンセラーは姿すら見えず、確実にアドバイザーが前に出てくる。そんな私にも「兼カウンセラー」的時代もあった。長年に亘る航空会社時代である。職場はまさしく「お客様は神様です」で、お客さんの要望を聞き、ひたすらOKが出せるように努力したものである。要望を聞き、助言、指導というのは自分の意見はかなり控える事になる。
 中途障害者の私が必要とするのは、実はカウンセラータイプの傍観者である。そう、「独り」は寂し過ぎるから、傍観者がいて欲しい。傍観者は読んで字の如しで、私の傍にいて、観ている訳だ。私の痺痛は、私自身が不可解なのだから、他人に理解を求めるのは難しいと思っている。そして、私は自ら自分自身のアドバイザーになる事になるだろう。

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