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私は中学時代の通学路は、行きと帰りでそれぞれ別のルートを使っていた。
朝、学校に「行く」時は、最短のルート。はっきり言って、面白味のないルートだった。
だが、夕方学校から家に帰る時は、大きく回り道をするルートだった。
朝は遠回りのルートを使うと、いつもと同じ時間に家を出たら学校に遅刻してしまうので、当然のことながら最短のルートだった。
だが帰りは、特に時間的な制約はなかった。夕飯までに家に帰ればよかったから。
なので、大きく遠回りをするルートで、ある意味そのルート上にある変化や楽しみを味わいながら帰っていた。
学校から自宅への最短ルートだと、まるで学校から家までワープでもしてるようで、つまらなかったのだ。
遠回りのルート上にあった変化・・のひとつとしては、そのルートには神社を突っ切るコースがあり、その神社をどう突っ切るかにも3種類くらいの方法があった。
神社内には木々が立ち並んだり、広場があったり、フィールドアスレチックコースのような崖道もあったりした。土むきだしの崖もあったし、湧水もあった。
驚くなかれ、小さな小さな滝みたいなものもあった。
日によって、その時の気分で、神社を突っ切る3種類のルートを使いわけていた。
神社内のルートはたいがい静かで、ちょっとした自然を感じることもできた。
そして静かな神社内を抜けると、駅前の商店街通りのはずれに出た。
商店街まで出ると、けっこう賑やかだった。、
神社内の静けさと、商店街通りの賑わいは、よい対比になっており、ルート上のメリハリというか、環境変化を感じることもできた。
しかも商店街には本屋があったのが大きかった。
その本屋で軽く立ち読みをする・・これが、遠回りルートの私にとっての最大の楽しみであった。これがあったから、かなりの遠回りのルートを使っていたのかもしれない。
そして、軽く立ち読みをして、それが終わり、あとは一路自宅に帰る。 緩やかで、やや長めの坂道をゆく。その坂道の途中には公園もあったが、その公園に立ち寄ることはめったになかった。だが、帰りの通学路に、あれこれ変化に富む、盛りだくさんの要素は感じることができた。
そして、その坂道の途中で自宅に向かうための小道に入るために曲がることになった。
で、その小道にさしかかると、道路わきに犬小屋があった。
おそらくその犬小屋の前にあった何かの事務所みたいなところの飼い犬だったのだろう。
で、その犬小屋には、首輪に紐がついて一定の距離以上には移動できない犬がいた。
たいがい、道路に寝そべっていたのだが、私が通りがかると、素早く立ち上がり、ワン!と鳴いて私に一気に近づこうとしてきた。
その近づき方は、いつも勢いがあった。寝てる状態からの、いきなりのダッシュであった。
まるで飛びかかってくるような勢いだったので、最初は驚いた私。
だが、よく見ると、その犬は尻尾を振っていた。
また、首輪を紐で繋がれているため、いつもすれすれの所までしか私に近づけない。
仮にその犬が私に飛びかかって噛みつこうとしたとしても、ギリギリのところで私には届かない。
距離的に安全だったし、また犬が尻尾を振ってることもあって、やがて私は「こいつは僕に挨拶してるのかな」と思うようになった。
今思うと、最初は尻尾は振ってなかったのかもしれないし、あるいは最初から振っていたのかもしれない。それはよく確かめてなかった。
だが、私が通るたびに、そのことを繰り返すので私も慣れていき、段々「よう!元気かい?」みたいな人間語をその犬にかけるようになった。
声をかけると、その犬はますます尻尾を振っていた。
しまいには後ろ足で立ちあがり、前足をバタバタ延ばして私に触ろうとするようになった。
なんとか私に触りたかったのか?
ここで私は確信。「こいつは僕が通りがかると喜んでいるのだ」・・・と。
そう思うと、それなりにかわいく感じるようになった私。
その犬小屋のある小道にくると、つい私はその道端の犬と目が合うようになった。
においで察したのか、私がその道に現れると、たいがいその犬は私のほうをじっと見ていた。
しまいには私も、その道に入ると、まず最初にその犬の方を見るようになっていた。
だから、すぐに目が合った。
目が合ったまま段々近づいていき、やがて犬小屋の前にさしかかると、満を持したかのようにその犬はワン!と吠えて私にダッシュで駆け寄ろうとするわけだ。
しまいには後ろ足で立って、前足を延ばして私に触ろうとして。
とはいえ、私はその犬の前で立ち止まることは、あまりなかった。
歩いて、通りがかり、去りつつもその犬のほうを時には振り向いて見ながらも。
で、この後私は家に着くわけだ。
かなり遠回りをした帰りの通学路ルートで、いつしかこの犬との「挨拶」がルートの最後の決まりごとみたいになった。
あれこれ変化に富んだ「帰りの通学路」の最後のシメみたいなものになった。
猫もそうだが犬も、飼い主ではない私であっても、毎日顔を合わせて顔なじみになると、挨拶してくれるようになるんだなあとしみじみ思ったものだった。
行きの通学路に比べて、帰りの通学路は「行き」の3倍くらいの長さがあったかもしれない。
少なくても倍以上は確実にあった。
でも、変化に富んでたし、途中で・・・例えば神社内のルートなど・・選択肢もあったし、楽しみも多かったので、私は帰りのルートを回り道だらけのルートにしていたのだった。
単に家に帰るだけなら、「行き」のルートをそのまま「帰り」にも使えばてっとり早い。
でも、最短ルートではあるものの、変化もなく、途中の楽しみもないので、味気なかった。
物足りなかったのだ。
学校から解放されたあとの楽しみや開放感を、帰りルートで味わいたかったのかもしれない。
そういう意味では、仮にドラえもんの「どこでもドア」でも実在したら、それを通学路に使ってしまったら、朝の急いでる時は良いけど、帰りは「経過の楽しみ」がないことになり、きっと味気ないとは思う。
まあ、何か急ぎの用事がある時は、帰りも最短ルートで帰ったが。
ともあれ、寄り道をゆっくり楽しむ・・・ということを、あの「帰りの遠回りルート」は私に教えてくれたのかもしれない。
で、それは大人になって、会社から自宅に帰る途中に、本屋に行ったり、CDショップにいったり、飲みにいったりすることに・・・繋がったのかもしれない。
ということは、あの寄り道ルートの通学路は、その後の私に影響を与えたことになる。
あの犬・・・その後どうしたかなあ。
私は中学卒業と共に、引っ越してしまったから、あの犬がその後どうなったかは知らない。
犬の寿命は短いから、もうとっくに死んでいることだろう(逆に、まだ生きてたら妖怪になってるかもしれない(笑))。
今思うに・・あの犬がもしそんなに私が通りがかるのを喜んでくれてたのなら、頭をナデナデしてあげておけばよかった・・・なんて思ったりする。
でも、もう遅い。
私があの犬のいた道を通ることは、中学卒業と共になくなった。
あの犬は、私の代わりになる誰かを見つけのだろうか。
現在、数年に一度、私は中学時代に住んでた町を散歩することがある。
ちょっと遠征になるし、そうそう気軽にはいけないけど。
それでもたまに行くのは、その町にお気に入りのレストランがあり、そこのカレーが大好きだから。
そのカレーを食べるためにその町に行った際に、ついでにその町を散策したりすることがあるのだが、その際、かつてあの犬がいた道に足を延ばしてみることもある。
そんな時・・・そういや、ここにあの犬がいたっけなあ。私が通りがかると、いつもワンと吠えてダッシュしてきたっけ。尻尾を振りながら。
・・・などと思いだしたりするわけだ。
ちなみに、あの犬を飼ってたであろう事務所は、今ではとうに無くなり、新しい建物が建っている。
もちろん、あの犬小屋などは、道にはもう跡かたもない。
あなたは通学路になにがしかの楽しみを見つけていただろうか。
ちなみに「ぼくのなつやすみ」のような通学路ゲームなんて、・・さすがにないよね(笑)。
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