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いつぞや、テレビで夜汽車(寝台車)を紹介する番組が放送されていた。
それを見たせいか、夜汽車に乗りたい気持ちが今私の中で膨らんできている。
だが、採算がとれないらしく、古くからあった夜汽車・寝台車は大半が廃止されてしまった。寂しい限り・・・と言いたいところだが、そんな私でも遠方に行くには飛行機を使うことが多いから、そんなこと言う資格はないのかもね。
夜汽車。なんとも良い響きだ。詩的にも感じる。
夜汽車というのは、夜出発して、朝目的駅に着く。
乗客は一晩を電車の中で過ごすことになる。
私が夜汽車に乗ったのは、覚えてる範囲ではこれまでの人生で3回しかない。
幼少の頃に親に連れられて東京から九州まで旅行した時の「行き」。この時に乗ったのは確か「さくら号」という夜汽車だったと思う。ちなみに九州から東京に帰ってくる時は飛行機だった。それは、おそらく生涯初めて乗る飛行機だったと思う。
まあ、「行き」の夜汽車も生涯初めてだったが。
で2回目は、確か高校時代の修学旅行の「行き」だったと思う。帰りは夜行電車ではなかった。
そして3回目はカナダでバンクーバー駅からジャスパー駅に行った時に乗ったVIA鉄道。
ちなみにジャスパーから次の目的地までは車での移動だった。
「さくら号」に乗ったのは幼少の頃なので、記憶はかなり断片的だ。
でも、わずかに覚えている記憶もある。
印象的だったのは、寝台列車で眠って、朝起きた時に見えた車窓。
田園風景が広がっており、はるか向こうに朝日が見え、朝日が世界を明るく照らしていた。
ただ、この列車で過ごした夜の風景はあまり覚えていない。
というか、夜行というのは当然夜走る。
なので広がる風景というのは、ほぼ見えない。夜の闇に世界が覆われているからだ。
とはいえ、昼間乗る電車と夜汽車では、風景に対する感じ方が違う。
厳密には、例えば夜の電車に乗って、その日のうちに(せいぜい数十分から1時間以内ぐらい)目的駅に着くのと、夜汽車にのって目的地に朝着く電車でも、乗り始めの時間帯は車窓から見える風景にあまり違いはない。夜の景色という意味で。
夜汽車が真価を発揮するのは、やはり夜中の時間帯であろう。
それと、乗り始めの頃であっても、夜汽車は通常の通勤電車や帰宅電車とは違うものもある。
まず、乗ってる客の心のテンションが違う。
単なる通勤や帰宅などの移動で乗ってるのと、旅に出るので乗ってるのでは、気分が違う。旅先に向かうワクワク感があるし。
そして、夜行列車だと寝台車であったりすると、座席がベッドにもなる。
通常の通勤・帰宅電車で車窓を見るのだと、座席に寝ながら車窓を見るということはできない。厳密にはできないこともないが(笑)、通勤電車などで座席に横になってしまったら周りの乗客からヒンシュクである(笑)。
寝台車のベッドに寝ながら車窓を見るのと、通勤電車で車窓を見るのでは、態勢も違うし視点の角度も違う。その態勢や角度だけでも、非日常である。
たとえ視界に入るのが同じ風景だったとしても、その角度の違いと、態勢の違いは大きい。
また、決定的に違うのは深夜の風景。
帰宅や通勤電車での夜の移動では、どんなに時間帯が遅くても、夜中の1時を越えることはないだろう。
だが、寝台車の場合は違う。普通なら終電が行ってしまった後の時間帯に、電車に乗ってることができる。しかも席はベッドである。
特に深夜2時から4時くらいまでの時間帯は、異世界という感じもした。
夜行電車に乗ってると、遠くの風景は見えなくて、見えるのはせいぜい電車の線路の近くの民家だったり、田んぼだったりするだけだ。
遠くにあるはずの山などは見えないか、もしくは黒いシルエットになってるだけだ。
昼間の車窓は、見る客に鮮やかな現実の景色を提供してくれる。広がりもある。
一方、夜行は見る景色に広がりはなく、遠くの景色も見えないが、そのぶん客に空想力を働かさせてくれる。
闇に隠されてるぶん、空想力がそれを補うのだ。
また、夜行でくっきり見えるのは、線路そばの街灯、民家の灯りだ。
周りが闇だから、余計に目立つ。昼間より格段と。
昼間なら、街灯に注目したり、民家の窓などに注目することはあまりない。
あっという間に通り過ぎてしまうし。
だが夜汽車だと、闇の中にぽつりと見えるたよりない街灯が目立つ。
民家の灯りも目立つ。
昼間の電車の窓から民家が見えても、単にあっという間に通り過ぎるだけだが、夜行だとそのわずかな灯りを頼りに、その民家の住人のその瞬間の生活をふと空想してしまうことがある。
あの家の住人は、あの部屋で今何をやってるのだろう・・とか、もう風呂からあがって酒でも飲んでるのかな・・あるいはそろそろ寝ようとしてるのかな・・などと。
まったくの他人で、しかも興味があるわけでもなく、ましてや面識もないのに、なぜ空想を働かせてしまうのか・・。
だが、昼間だと、車窓から見える他人の民家の住人の生活などまでは空想しない。
また、車窓から街灯が見えた時、その街灯は、街灯のそばの一部分の風景だけをクローズアップして照らしてるだけだ。
それ以外の場所は、闇に隠されている。
だからこそ、闇に隠されてる部分を想像で補うのだ。闇に隠されているのは道であったり、田んぼであったり、ある時は線路近くの里山であったり。
夜行電車がどこかの踏切を通過する時の風情もいい。
警報音が近づき、踏切を電車が通過したら、その警報音はすぐに後方に遠くなっていく。
ドップラー効果。
一瞬近づき、そしてまた遠くなる警報音が、風情あるのだ。昼と違って他の雑音がないぶんだけ、その警報音は目立つ。なにやら闇に響いても聞こえる。
そしてその踏切が、頼りなげな街灯に照らされていたら、時にはまるでそれが演劇などのセットの一部に見えることもある。
ともかく、夜汽車は乗客の空想力を刺激してくれるのだ。
私が二度目に夜汽車に乗った高校時代の修学旅行では、寝台車のベッドは2段になっていた。
私が陣取った場所は、2段ベッドの1階だったか2階だったかは忘れた。
だが、ベッドに横たわりながら、頭を窓側にして、向かいのベッドの級友とあれこれ話しながら、流れゆく夜景を見ていた。
ベッドに寝て、夜景を見るのは新鮮だった。わくわくもしたし、なぜかしみじみともした。
まさに非日常の景色と感覚であった。
民家、線路そばの踏切にある街灯、広がっているはずの田畑、黒いシルエットと化した里山、夜空、月、星。
すべてが闇の中にある風景が電車の動きと共に変化していく。
闇で隠されている部分が大半だから、前述の通り、想像力も働き。
しかも、それをベッドに寝て見ていられる幸せ感。
同じ体験をしていた、向かいのベッドに寝そべる級友との仲も深まった気がした。
また、夜汽車が深夜にどこかの駅に停車しているさまも好きだった。
深夜なので、駅には人はいない。
売店などもやっていないし、弁当などの売り子もいない。
そこにあるのは、人っ気のない寂しい駅。
それでもけなげに駅を照らす灯り。どこか頼りなくもあり、哀愁もあった。
灯りが照らしてるのは一部だけで、それ以外は闇。
駅の端っこの「駅の終わり」にある柵。それで世界が終わりかと思えばそうではなく、さらに、その先にある闇。その闇の中に消えてゆく線路。
「ここはなんという駅なんだろう」などと思い、駅の名前を調べてみても、自分には馴染みのない駅。
なので、その周りのエリアの昼間の環境もわからない。
なので、すべては想像力で補うことになる。
「ここは昼間はどんな場所なんだろう」などと思いながら。
なんか、夜汽車が深夜にどこかの駅で停車すると、その駅は夜の闇の中にポツンと現れたオアシスみたいにも思えた。
寝台車のベッドで、いつしか眠りに落ちて、夜中にふと目が醒めたりした時、一瞬自分がどこにいるかわからなくなる瞬間があった。自宅や、旅館などで見る室内景色と明らかに違うから。
そんな時、室内にあったベッド、梯子、そこに寝ている級友、天井、床下から聞こえる音とシンクロする心地好い「揺れ」、そしてなんといっても自分のベッドの枕元にある窓、窓の外の移り変わりゆく景色を見て、「おお、そうだ。自分は今夜汽車に乗っているのだった。」と改めて実感し、我に帰り、今自分が貴重な非日常の中にいることで感動し、嬉しくなった覚えがある。
で、窓の外の流れゆく夜景を見てると、夢の中にいるような気分にもなれた。
カナダで、バンクーバー駅からジャスパーへの異動で乗った夜行の寝台車は、これはもう一生ものの体験であった。
VIAは、決して速度の早い電車ではなかったと思う。
バンクーバー駅を発車したVIAはゆったりゆったり進んでいった覚えがある。
最初は街の風景が見え、やがて少し郊外に出ると、ゆったり流れる川も見えた。
たしか、川と平行して走っていたと思う。
川の向こうには田園風景が広がっていた。しかも、広大な。
やがて、夜はどんどん深まっていった。異国だったので、周りの風景にはちょっと想像がつかない部分もあったが、それでもカナダの広大な大地の上を走っているのは気分がよかった。
途中、真夜中にどこかの駅に停車した。
その停車時間はかなり長かった。後で知ったことだが、朝飯用の食材などを、その駅から電車に積み込んでたようだ。
電車では食堂車で朝飯が出たからね。
電車内にはサロンみたいな車両もあり、そこには乗客が自分の席から自由に移動してきて、くつろげるようにソファーがあった。
もしかしたら電車の最後尾だったかもしれない。
窓がソファを取り囲むように、あった。
その空間からは、窓の外の景色が180度見渡せた。
ソファーに座って夜の闇を見て顔を左右に動かしていたら、ふと車内の壁に時計がいくつもあるのに気付いた。
見れば複数の時計は、ぞれぞれ違う時間を表示していた。
それは・・広大なカナダの中の様々な町の現在時間であった。
広大な国土のカナダには、国内の様々な都市によって時差があるのだ。
カナダいくつかの都市のそれぞれの現在時間を、それらの時計は表示していたのだ。
「このへんは、日本と違うなあ。さすが広大な国だ。」などと思った覚えがある。
やがて、荷物を積み終わり、しばらくの停車時間の後に、おもむろに再び電車は走り出した。
そしてうっすら夜が明けてきた。あたりには大自然が広がっていた。
線路ぞいを流れる川の様、川の向こうの広大な大地、その大地の向こうにある美しく高い山々。
豪華な電車だったので、電車内ではシャワー室もあった。電車内でシャワーを浴びたことなどそれまでになかったから、快適度はひとしおだった。
やがて陽がだいぶあがると、それまでの美しい山々とは数レベル違う驚異的な山がそびえたっているのが見えてきた。その山に対する予備知識がなかったものだから、その偉大な山姿に私は一瞬言葉が出なかった。
大きな感動があった。
「な、なんだ、あの山は!!」
その山こそ、エディスキャベルであった。
カナダでの夜行電車では、日本国内とは違うゆえの想像力を越える風景があった。
その極めつけが、エディスキャベルであった。
まったく想像力を越える存在がそこにあった。
エディスキャベルを初めて見た時の感動や衝撃は、私は一生忘れないであろう。
まあ、カナダでの体験は、またいずれ機会を改めて書くことがあるかもしれない。
ともかく、夜汽車での旅は私は数回しかないが、その数回はかなり印象的なものであったことは確かだ。
夜汽車・寝台車に乗る機会は、そんなに多くない。
だからこそ、いざ乗った時の印象は強くなるのかもしれい。
カナダで乗った夜汽車は、国が違うから私の想像力では想像しきれない部分もあったが、国内での夜汽車では、たとえ風景が暗闇に包まれていても、自分なりに想像力を働かすことができ、想像力の余地がある点が楽しくもあり、印象的でもあった。
そんな魅力のある夜汽車・寝台車ではあるが、前述の通り、今では大半が廃止されている。
遠距離の移動は飛行機を使う場合が多いだろうし、仮に飛行機に乗らなかったとしても、今では各地へ向かう新幹線がある。
新幹線の速度は、寝台車の比ではない。
旅行日程をあまりとれなくて、なおかつ遠方に出かけるには、現地での滞在時間を稼ぐためには、行きと帰りの移動の時間を少しでも短くしないきゃいけない。
そうなると、どうしても飛行機や新幹線になってしまうのであろう。
だが、現地での滞在期間も大事だが、それと同じくらいその場所までの移動を味わうのも大事にするなら、夜汽車・寝台車は魅力あると思う。
できれば余裕のある日程を組み、せめて「行き」だけでも夜汽車・寝台車で移動したい。
そのためには、・・現在残っている数少ない夜汽車・寝台車にはなくなってほしくない。
そういう電車を使って行く旅行は、ひときわ味わい深い旅行になるであろう。
私も3回、寝台特急・夜汽車ブルートレインに乗ったことがあります。
区間は、いずも同じ東京発~大分着でした。
その時、大分県内・宇佐で下車して、各駅停車で杵築(祖父母のお宅がある田舎)へ向かったのでした。
さて夜汽車車内では、だんぞうさんと全て同じ心境でしたね。
なので一つだけ、私の思い出を書きますと、夜汽車が東京駅から出発して、まだ間もない頃。
通路側にある座席にて、ゆったりしている時、ブルートレインと並行して走る在来線がありました。
在来線は、もちろん寝台特急ではありませんから、立っているお客さん、座っているお客さんさまざまな様子が見え、一方私は、故意にのんびりしている様子を見せて(笑)、対照的でしたね。
在来線と夜汽車とが、ほんの数分並行して別れゆくとき、在来線側から汽笛が2回鳴らされたのです。
まさに夜汽車に対して「皆さん、お気をつけて行ってらっしゃいませ!!」と言わんばかりの…。
あの時の汽笛、今でも私の耳に残っています。
「エディスキャベル」、これは“詩(うた)”になるでしょうね。
タイトルも、そのままで。
雄大なオリジナル楽曲になりますように…。
夜汽車というのは非日常な体験なので、とりわけ印象に残りますよね。
東京から大分まで・・・というと、かなりの距離。
さぞかし乗りごたえがあったことでしょう。
色々なことが思いだせるのではありませんか。
確実に一晩はかかる移動時間でしょうし。
ブルートレインに乗って在来線と並行して走ってる時って、在来線のお客さんたちに、ちょっとした優越感みたいなものがあったのではありませんか(笑)。
別れゆく時に在来線が汽笛をならした・・・ってのは、なんとも粋ですなあ。
光景が目に浮かぶような気がします。
エディスキャベル山・・・なまじこの山のことを知らないまま現地に行ったものだから、ともかく圧倒されるやら驚くやら、感動するやら。
あの第1印象はとうてい忘れられません。
わざと「夜汽車の窓辺にて黄昏(たそがれ)た少女」を演じていましたからね。
首をかしげて、ほっぺにお手々を当ててみたり…(笑)
しかし在来線からの汽笛、何とも粋なことですよね。
右左に別れゆく中、私も、その在来線が見えなくなるまで、ずっと見つめていました。
「ありがとう!!」との想いを込めて…。
エディスキャベル、だんぞうさんが大好きな上高地にも似ていませんか?
規模や雰囲気は、カナダの方がさらに雄壮でしょうけれどね。
だんぞうさんの瞼に残るエディスキャベル、私の耳に残る在来線の汽笛、どちらも詩になります。
私もそういう場にいたら、同じような感覚になると思います。
鮎川さんのそういうシチュエーション、なんかのドラマか何かに出てきそうな場面ですね。
カナダに行って帰ってきたその年の秋に、ちょっとでもカナダっぽい風景が見たくて旅行したのが上高地でした。
上高地にもカナダにも、それぞれ違う良さは感じました。
日本観光にくる外国人旅行者には、ぜひ上高地には行ってみてほしいです。