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気ままな雑記帳です。話題はあれこれ&あっちこっち、空を飛びます。別ブログ「時代屋小歌(音楽編)(旅編)」も、よろしく。

会津武家屋敷で、思いがけない人物のお墓が!

2024年06月29日 | 

この旅の私のブランは2泊3日の日程だった。

1泊目は早戸温泉つるの湯。

2泊目は会津若松の宿「あいづ」。2泊目は東山温泉の宿をとってもよかったのだが、喫煙可な部屋が取れず、喫煙可の部屋を取れた「あいづ」に決定。

今思えば、できれば3泊のプランにして、郡山から足を伸ばして二本松の方にも泊まってみたかったかな。

二本松はこれまでに何度か来ており、前回来てから長い年月が過ぎていたので、二本松の方にも脚を伸ばしてもよかった。

もし二本松に泊まってたら、伝説の「安達ケ原の鬼婆」のゆかりの場所に再び行ってみたかった。

「安達ケ原の鬼婆」伝説は割と有名な昔話なので、ご存知ない方はネット検索すれば、すぐに該当記事が見つかることだろう。

前回「安達ケ原の鬼婆」の地に行った時は、現地であまり写真を撮らなかったんだよね・・。

今思えば、その時にもっと現地の写真を撮っておけばよかった。その時はかろうじて、鬼婆の墓といわれる「黒塚」の写真は撮ったけど・・。

 

ともあれ、2泊3日の今回旅の3日目。

まずは宿のバイキング朝飯を食べ、タクシーで会津武家屋敷に直行。

会津若松から東京に帰るには、ます会津若松駅から磐越西線に乗って郡山駅に出ないといけない。

新幹線の駅は会津若松には無く、郡山駅にあるからだ。

ということは、会津若松駅から郡山駅に向かう磐越西線の所要時間も考慮しないといけない。

磐越西線に乗ってる時間は、決して短くはない。鈍行だと1時間15分以上かかるし、快速でも1時間以上かかる。

しかも山手線のように頻繁に便があるわけではない。1時間に1本くらいなのだ。

なので、会津若松駅から郡山駅までの所要時間もある程度は時間的余裕を持っておきたい。

そのためには、武家屋敷に行く時間はロスを防ぎたい。そうなるとタクシーを選ぶのに迷いはなかった。

 

↑会津武家屋敷入り口。中には土産物屋もあった。

 

↑この武家屋敷は、会津藩の家老の西郷頼母(たのも)の邸宅だったらしい。立派な屋敷だった。

 

 

さて、会津武家屋敷に到着。修学旅行の学生さんたちが多くて、賑やかだった。

立派な入り口を持ち、敷地内の広さもかなりなもの。まさに、一大観光スポットであろう。

修学旅行で欠かせないスポットになっているのは、頷けた。

入口入って、いきなりあったのは西郷四郎の銅像。あの「姿三四郎」のモデルになった柔道家。

だが、今の若い学生さんたちは姿三四郎のことはよく知らないのではないかな。

芸人の「三四郎」や、古い漫画「1・2の三四郎」くらいは知ってても。

西郷四郎は、会津藩家老「西郷頼母」の養子で、講道館四天王のひとりの柔道家で、山嵐という必殺技を持っていた人物。

会津武家屋敷は、西郷頼母の居宅を中心に保存されているので、西郷四郎の銅像が設置されていたのは、納得。

 

↑富田常雄の小説「姿三四郎」のモデルとなったのが西郷四郎。講道館四天王の1人だった柔道の達人。必殺技は山嵐。そういや、あの黒澤明監督も姿三四郎の映画を撮っていたっけ。

 

 

↑四郎は西郷頼母の養子だったらしい。ならばここに四郎の像があるのは頷ける。

 

さてと、武家屋敷内は前述の通り、けっこう広かった。

暮らしぶりが伝わってくるようなミュージアムだった。

 

 

↑この邸宅に賓客を迎えた時は、ここから案内されたらしい。賓客以外は別の部屋の縁側から出入りしたいたらしい。

 

↑大広間。手前の人形は西郷頼母で、上座にいるのは殿様。

 

↑殿様。松平容保という設定かな。

 

↑西郷頼母。今の感覚だと、かなり小柄な人物だったようだ。でも当時はそれが普通だったのだろう。

 

↑屋敷内散策。いやあ、広いわ。さすが家老の邸宅。

 

↑山川捨松。すてまつとはいっても、れっきとした女性。元々は華族。政治家の大山 巌と結婚後は大山捨松。ウィキによると「日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性」とのこと。

 

↑中畑陣屋。元ジャイアンツの中畑清さんを思い出してしまった。

 

 

↑武家屋敷内はかなり広い。訪れるなら、それなりの所要時間を確保しておいたほうが無難。

 

 

↑こんな縁側、都心じゃ中々お目にかかれない。

 

 

↑これだけ邸宅が広いと、管理は大変だったろうね。

 

 

一通り武家屋敷を見終わり、そろそろ出ようかなという時、敷地内に思いがけない看板を見つけた。

その看板には、なんと!

「佐々木只三郎の墓」の案内が書かれていたではないか!

これはびっくり。

佐々木只三郎といえば、あの坂本龍馬を斬った京都見廻組の隊士ではないか!

同僚の今井信郎たちと共に、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎を斬った人とされているのが、佐々木只三郎だ。

龍馬暗殺者には諸説あるが、実行犯のひとりとして有力視されてるのが、只三郎。

まさかこんなところで、佐々木只三郎の墓に会うことになるとは!

佐々木只三郎は、会津の武家屋敷の敷地内で眠っているのだね。

 

↑なんと!ここでまさか佐々木只三郎の墓に出会えるとは!

 

↑京都見廻組、佐々木只三郎の墓が、ここに!

 

 

↑安らかにお眠りください。

 

只三郎は龍馬暗殺後、鳥羽伏見の戦いに参戦し、銃弾を受けて負傷。その後、和歌山に敗走中に死亡したとされている。そして死後、会津藩の有志によって、会津武家屋敷の一角に、この墓が建立されたという。

ここにまさか佐々木只三郎の墓があるなんて私は知らなかったものだから、本当にびっくりした。

 

まあ、龍馬と只三郎は敵同士だったことになるし、龍馬ファンにとっても敵ではあるのだが、歴史の動乱の中では正義はどちらにあったかは結論できない。どちらにもそれぞれの正義はあったのだと、現代人の私としては思う。

 

 

 

さて。武家屋敷を出た後、私は巡回バスに乗り、会津若松駅に戻った。

時間的には、そろそろ昼飯の時間。駅の近くの喜多方ラーメン屋で、今度こそ喜多方ラーメンを食べた。

ラーメンには色々な種類があるが、喜多方ラーメンは私がトップクラスに好きなラーメンなので、満足!

 

 

 

↑町をまわる巡回バス「ハイカラさん」。修学旅行の学生さんたち、多し。

 

 

そして。

磐越西線に乗り、郡山駅に着き。新幹線に乗って、無事に東京に帰った。

 

 

↑会津若松駅。駅近くの喜多方ラーメンの店で食べた喜多方ラーメン、さすがに安心安定のあの旨さ!満足。

 

この旅で印象に残ったのは、まず只見線。秘境鉄道として名高い路線。

そして、つげ義春先生のゆかりの早戸温泉の「つるの湯」。これは私には絶対。今回の旅行のメイン。

それと、忘れちゃならない七日町の齊藤一の墓。新選組の剣豪のひとり。

そして最後に佐々木只三郎の墓!京都見回り組の隊士で、坂本龍馬を斬った人物とされてる人。

 

ひとまずさらば、会津若松。またいつか。

 

↑郡山駅。もう1拍の日程があれば、二本松の鬼婆のところまで行きたかった。まあ、いずれ。

 


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