つい先日まであれほど葉っぱがいっぱいあった木が、気づけば一気にスケルトンになってしまっていた。
まあ、道路に連日たくさんの落ち葉があったから、経過は感じていたのだが、それにしても一気だなあ。
木の向こう側が透けてみえるようになっている。
道路の落ち葉は、一頃は絨毯のように道を覆っていたものだが、そのたびにまめに掃除され、いつしか道路に散らばってた落ち葉も見なくなった。
木の葉っぱはとりあえず落ち切ってしまい、落ち切った葉っぱは人間に掃除され、かくして木の葉は、すっかり片づけられたのだ。
なんか、葉っぱのなくなった木は、それだけで寒々とする。
もちろん、実際に寒々とした季節になってはいるのだが、仮に気候が寒々としてなくても、スケルトンになった木には寒々としたものを感じてしまう。
そういう木には、少年時代、なぜか木のぼりする気もおきなかったものだ。
以前「木のぼり」の日記にも書いたが、木には葉っぱがあってこそ、登りたくなったのだ・・・と思う。
だって、葉っぱがないと、木のぼりしてるのが、下から丸見えだもの(笑)。
葉っぱがなくなった木は、骨格だけになってしまったようでもあり、なんだか寂しい姿。
本性がそれなのだとしたら、隠すということも、隠されてるということもまた大事なことなのだ。
そう、オープンであればいいというものでは・・・ないのだ。
まあ、でも来年になればまた木の葉っぱは生えてくるからいいけどね。
もしかしたら、秋風や北風は、木にとっては床屋のようなものなのかもしれないね。
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