時間の外  ~since 2006~

気ままな雑記帳です。話題はあれこれ&あっちこっち、空を飛びます。別ブログ「時代屋小歌(音楽編)(旅編)」も、よろしく。

人形劇「自分座」に、ようこそ。

2007年10月23日 | 懐かしい系、あれこれ

子供の頃、アニメや漫画などのキャラクター人形のオモチャを持ってた人は多いだろうと思う。例えばソフトビニール人形。
気付けば何体か揃っていたりもして。
で、そのオモチャを使って、例えば右手と左手にそれぞれ違うキャラクター人形を持って、オリジナル人形劇をして遊んだりしなかっただろうか?

私は、よくそうやって遊んだもんだった。
1人遊びにはもってこいだった。

それは、実際のアニメや漫画の中では実現不可能な、キャラクターの共演と相成るわけだ。
自分がそのキャラクター人形を持っていさえすれば、キャラの夢の共演ができるわけで、実に手軽。
例えば、タイガーマスクと怪獣王子の共演。これは私が持ってたソフトビニール人形だった。
こんなの、実際の漫画やアニメの中で実現することはまずありえない。
でも、自分が座長を勤める「自分座(?)」では、そんな夢の共演は日常茶飯事。

こういった「自分座」の人形劇には観客はいない。だからこそ、制約もなく、自由きままにお話を展開させることができた。
自己満足の極みではあるが、もともと空想力ってのは自己満足できる度合いの強い人ほど鍛えられるシロモノだと思う。


たいがいは戦闘シーンになった。
でも、タイガーマスクも怪獣王子も双方「主役」であり、共に正義の味方。
だから、どっちかに勝たせるということは、いつもできなかった。
その点、ウルトラシリーズの怪獣のソフトビニール人形でもあれば、タイガーマスクと怪獣王子が強力して怪獣と戦うことができ、これこそ「夢の共演」だった。


こういう「自分座」の人形劇をやって遊んでると、イメージがどんどんふくらんでいった。
まさに、頭の中に仮想スクリーンがあって、自分の頭の中で空想力が養われたような気がする。

不思議なもので、「自分座」の公演は、誰か1人でも自分以外の人が観てたりすると、お話はとたんに他人行儀になる。
私の下には弟がいたし、隣に住む親戚の女の子(弟よりも年下)もよく遊びに来てたのだが、彼等も私の真似をして、ぞれぞれ「自分座」を持ち、人形を使って1人で人形劇をやって遊んでいた。
ある日、私は気紛れに、「お前たちの人形劇を、僕に見せてごらん」と言って、私の前で人形劇をやらせてみた。

すると・・・

各キャラクターは途端に他人行儀になり、それぞれ品行方正になってしまった。
だって、各キャラが「こんにちは」「こんにちは」と正しい挨拶を繰り返すだけで、全然話が進んでいかないんだもの。
やっぱり、こういう「自分座」の人形劇ってのは、誰かが観てるとダメなんだね。
きっと私の「自分座」も、誰か観てる人がいると、ストーリーは進まなかったことだろうと思う。


「自分座」の舞台は、風呂場であったり、家具の上であったり、布団の上だったりもすれば、廊下でもあったり。
それこそ、家の中の色んな場所が「自分座」の舞台になった。
実際には家の中のどこかであっても、頭の中の空想の世界では、それは色んな場所だった。
空間は空であり宇宙でもあった。時には異次元でもあった。
風呂場の浴槽の中は、海であり湖であった。ある時は底なし沼でもあった。
家具は、ビルディングでもあり、山脈でもあり、敵の基地でもあり。
押し入れの中は、主人公の秘密基地であった。
ホント・・・色々な場所だった。


夜、布団が敷いてある部屋で蛍光灯を消すと、部屋の中の明暗は、隣の部屋から差し込んでくる灯りの加減で、部屋の中の闇と明るい部分の対比がくっきりする。
そんな時に、布団に寝っ転がって人形を持ってると、布団の前の家具の表面に、人形だけが写って見える。それを動かしてるだんぞう少年の姿は闇の中に埋没している。
つまり、その「画面」の中では、人形だけが動いているように見えた。

この現象を利用して人形劇をやるのは楽しかった。
家具の表面に写った「画面」は、さながら本格的な人形劇にも見えた。
当時、「トッポジージョ」という人形劇番組が人気あったのだが、その番組では人形たちのバックは黒だった。
黒い背景をバックに人形が動き、バックと人形の対比が鮮やかだった。

夜、灯りを消した部屋の中で、あやつる人形を家具に写して見てると、前述のトッポジージョみたいな本格的な人形劇を自分が演じているような気がした。
もっとも、いつまでも寝た状態で人形を操っていると疲れてくるので、あまり長時間はできなかったけど。

だが、この方法は、自分としては「ちょっとした発見」だった。


この日記を読んで下さってる皆さんの中にも、自分だけの人形劇の方法を見つけだして演じていたりした方は、いるのではないだろうか。



・・・・・で。


さんざん遊んだキャラクター人形たちは、人形劇での酷使で疲れ果てていく。
傷も多くなる。
へたしたら破損も生じるようになる。
汚れてもいく。
座長の関心は、別のキャラクターに行ったりする。
いや、それだけならまだいい。
座長は人形劇に関心を無くし、別のジャンルのものに関心が移っていったりもする。

そうなると、現役時代を謳歌したキャラクター人形だちはだんだん売れない役者になっていく。
体力の限界(この場合、破損などを指す)を感じ、出番を失い、表舞台から去っていく。
で・・・自然引退ということになっていったわけだ。

座長は「自分座」をいつのまにか空中分解・・というか、自然解散させて別の場所に行ってしまった。

残された、引退役者たちは、かつて自分を愛してくれた座長の知らぬ間に、座長の親などに処分されて、どこかへ運び去られていってしまう。
そう、それは、座長の届かぬ、遠い遠い・・場所へ。
その場所が一体どこなのか。
座長は知らない。

いや・・本当は薄々知ってはいた。どんな場所か、ある程度想像もついた。

でも・・・口にはしたくなかった。

なぜなら、関心をなくした残酷な自分に、うしろめたさを感じていたからだし、想像するのは辛いからだった・・・。

処分した親に、今さらのように抗議しても、もう遅かった。



時は流れて、今。
鑑定団などで、古いキャラクター人形に法外な値段と価値がついてたりする。
その人形たちは勝ち残ったのだ。別の所でね。
で、その値段と価値は、かつて自分に飽きてしまったたくさんの座長たちへの抗議なのかもしれない。
かつては自分を愛してくれながら、飽きると捨てていった・・もしくは捨てられるのを阻止してくれなかった座長たちに「ほれ、見なさい!」とか「どんなもんだい!」とでも言ってるのだろう。
誇らし気に。でも、切ない目で。

そんな気がする。




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