愉しい触れ合いを目指してゆとりの有る人生を歩みましょう

平凡な日常生活にまつわる拘り情報、写真、並びに体験談等を交えて皆さんとの交流を深めて参りたいと思います。

ラスベガスの春の日本庭園

2015-05-12 21:17:08 | 文化・イベント

毎年ラスベガスのべラジオ(Bellagio Hotel and Casino)では年に四回の季節に分けて、夫々の季節に応じた風景やイベントの展覧が館内に設置された植物園内にて開催されて居り毎回大勢の観光客の目を惹いて人気を集めています。 毎日24時間通して何時でも無料で楽しめます。

ハワイより4年振りに再びラスベガスの生活に戻って参りました。久し振りに有名なべラジオの植物園を訪れると懐かしい美しい日本庭園が紹介されていましたので,お裾分けさせて頂きます。相変わらず観光客の人気の的となっていました。 最後の部分ではチョコレートの瀧が垂れ流されている芸術作品の展覧もお店の入り口に設けられていて興味深く目を惹かれていました。

其の他、べラジオに隣接しているAriaやMonte Carlo等を繋ぐ無人操作のモノレールがひっきりなしに観客の移動に便利しています。




最後までご覧頂きまして有難うございました。 次回の夏の季節に相応しいイベントは如何なるものか愉しみしています。 5月22日から変更される予定です。

Spring Celebration | March 20 - May 16
Summer Garden | May 22 - Sept 12
Autumn Harvest | Sept 18 - Nov 27
Winter Holiday | Dec 3 - Jan 2, 2016
*Dates are subject to change
Free admission

猶、べラジオの素晴らしい写真、風景など「Bellagio Fountains」又は、「Bellagio Botenical Garden」オン ラインで簡単にご覧になれます。

私の「母の日」の出来事

2015-05-10 23:12:52 | Weblog
「母の日」の出来事

今年も例年の5月10日と云えば『母の日』。 「母の日」に備えて先ず尤も目を惹くのは色鮮やかな贈り物の花束や綺麗なコサージ等、又はレストランでの宣伝等も含めて幅広く暖かく迎える風習は可なり強い。 私は82才の年齢に達して供に苦労を重ねて来た伴侶は既に私の介護を必要とする身体で既に10年近くになる。 子供に恵まれなかった私達夫婦に取って父、母と呼んでくれる我が子は居ない。 まして両親との縁も薄かったので早く死に別れ、父、母と呼べる親も居なかった。 然し母親は居なくても、長く付き添った愛妻が何時も傍にいて呉れる。 例え何も出来ない不具者になり果てていても、私に取ってはたった独りの愛妻だ。 彼女は私の名を呼ぶより、ダデイーと呼ぶ事が多い。 然し私は妻の事を『お母さん』と呼ぶことは無く、何時もニックネームで 「ミキ」と呼んでいる。 2人だけの食事は余り愉しくないが、たまに「母の日」を理由にレストランに出掛けた事は有ったが、アメリカ式に花束を贈った事は殆んど無かった。 一度だけ妻が家に居た「母の日」に仕事場から家に花屋さんを通して花瓶に入れた花束を贈った事が有った。 妻が驚いて喜んだのは束の間で、花は花瓶ごと愛猫に拠って床に叩き落とされたのでした。 其れが最初の最後となりました。
今年の「母の日」は何時も世話になっている近所の友人夫婦から彼等の娘夫婦と一緒に夕食に出掛けるが、一緒に出かけないかと誘われたのでした。 此の数日、風邪をこじらせていた妻が気掛かりだったが、一応行く事に決めていたので今朝方コサージを三つ買って用意しておいた。 他にも、一組大変世話になっている夫婦もいるので、彼等には日頃のお世話を感謝して「母の日」の為に薄紫のシクラメンの植木をそっと玄関口に置いて帰ったまでは良かったが、直ぐ其の後に気付いた事は、全く違う家の玄関口に置いて来た事だった。 何とした事かと其のしくじりに恥ずかしく思いながらも、恥を忍んで其の家のドアをノックして、訳を説明して無事取り戻したのでした。 今まで彼等の家を間違えた事は一度も無かったのに、この度に限って間違うそそっかしさには自分ながら呆れましたが、無事彼等の手に収まって喜ばれて良かった此の日は私の「母の日」でした。 残念ながら夕食に誘われた友人夫婦との夕食には妻の風邪の具合を気にしてお断りさせて頂きました。
普段に遣りつけない事をするとこんな羽目に合う事を肝に銘じて今度の教訓とします。 

 

「観光地と化した我が故郷」

2015-04-26 19:38:07 | 観光地と化した我が故郷

私は廣島育ちで中学生になってから初めて私の生まれ故郷はハワイのホノルル市である事を知らされました。所謂帰米二世です。 1歳半の時初めて両親と兄、姉と共に連れられて両親の故郷である廣島で住む事になったのでした。 其の当時の家族写真や米国国籍を示す出生証明書なども見せられて、自分には英語の名前でBenjamin  ベンジャミンと言う名前が登録されて居た事さえ知らず驚きました。 戦時中の頃でしたので父親からの英語会話は一切有りませんでしたので中学生になって初めて英語を学び始めるまで英語は一言も知りませんでした。
無事に廣島の中学に入学した1年生の年に廣島の原爆で命拾いしましたが、終戦後、16歳の頃、高校2年生を中退させられ父親は私の将来を思って単身でホノルルに住む伯母の家に私を託したのでした。 それ以来私の生涯は両親や兄姉達から完全に離別させられ寂しい運命を余儀なく負わされて現在に至っています。 家庭の複雑な事情に拠り二度と共に暮せる日は訪れませんでした。  日本に住む家族とは文通を交わす程度で遂には両親との最後を見届けることすらも不可能に終ったことは今でも悔やまれて仕方が有りません。
顔も見知らぬ初めて出会った伯母のお世話で無事にホノルルの高校を卒業出来ましたが、同時に朝鮮戦争勃発の為、19歳にして米国市民の義務として米国陸軍の任務に携わる事となり、挙句には朝鮮に2年間駐屯勤務を課せられる事となりました。 幸いに其の期間には戦争が終った直後でしたので最悪の危機は免れました。軍隊勤務の任期は無事米国本土にて終えた後、除隊してカリフォルニアのロスアンゼルスにて初めての私の自活が始まったのです。
結局ハワイでの滞在期間は高校を卒業するまでの僅か3年間にして、それ以後2011年の2月までハワイに戻る事は有りませんでした。 私の生まれ故郷と言うだけの事で特に懐かしさは感じませんでしたが、生まれ故郷だからこそ一度自分の家を持って生活をして見たい気持ちに誘われ、第二の引退生活を楽しみたい一念で引越しを決断したのでしたが、私が抱いていた昔のホノルルとは打って変わった観光地と変わり果てていたのでした。  私は観光地として全国の憬れの的となった人気最高のホノルルを見直し、再びハワイの住民として暮せる事を幸せに思って喜んでいました。  然し其の為に街中は観光客の莫大な数と其の数に見合う以上のレンタル カーの数で街中は渋滞状況が絶えず、凄く不便を感じました。 2週間位の短期間の休暇を愉しむには最高な観光地である事は認めますが、それ以上の生活を続ける街では無い事をつくづく実感させられました。 
2011年の2月には私の念願が叶ってホノルルに戻り、初めての我が家を持ち第二の引退生活を始めたのでした。 凄く幸せに感じて素晴らしい生き甲斐を感じました。 尤も素晴らしいと感じた事は此処に住む現地の住民の暖かい親切な人柄の良さに凄く感動させられました。 日本人が多く住む此のハワイでは全く人種差別を感じる事無く、誰もが非常に親しみ易く明るい性格の持ち主が多い事でした。 此の土地で生まれ育った人達に取っては将にパラダイスで幸せな暮らしをエンジョイされていると思われます。 然し彼方此方で暮して来た体験を身に付け、高齢に達した引退者の私に取っては決して喜んで満足出来る場所では有りませんでした。 愉しかった割には経済的にも可なり窮屈な生活状況の暮らしを強いられた様に感じました。 其の原因の一つには長年の家内の介護に明け暮れを必要とした事、更には身近な身内の家族や親戚の不在で常に不安な気持ちを抱いていたからです。 
幸いに私は年齢の割には体力に自信が持てていましたが、年数が経つにつれて自然と未来の生活保護に不安を感じるようになりました。 誰もが避けて通れぬ道程を考慮して早めに気持ちを入れ替え他人に迷惑の掛からぬ様に配慮して急遽引退者ホームに移動する事に決断を致しました。 引越を決行する毎に多くの家財道具を手放して参りましたが、更に身軽にして狭い一部屋の引退者ホームのアパートに移動したのです。 一時的には焦り気味だった不安な気持ちは薄れて拭い去り一段落をして喜んでいました。 充実した綺麗な施設と親切なスタッフのお陰で毎日が愉しく満足に思われていました。 然し乍ら3ヶ月目を迎えた頃には現実と生活状況の息の詰まりそうな部屋の狭さの不便さに耐えられなくなって来ました。引越し荷物の整理が出来ない侭の生活には可なりの抵抗が生じていました。 まるで軟禁状態の生活を余儀なく続けて行くかの様な毎日でした。  
其れまでに感じていた幸せな毎日は何処に消え失せたのでしょうか?  それに毎月の生活維持費は決して半端な出費では有りませんでした。 私には介護を必要とする家内との生活がこれからも伴って参ります。 私には未だ今迄以上に有意義な愉しい生活を過ごす事が出来る場所が必ず有る筈だと思う様になりました。 このように感じる毎日を重ねて行く様になって最早此れまでと、4ヶ月目に入った時点で以前7年間住み慣れたラスベガスを思い出し、早速ラスベガスに舞い戻る決心を致しました。 4年間のハワイ生活は非常に良い体験となり愉しかった想い出を残して決して悔いは有りませんでした。  多くの素晴らしい人達と巡り会えて親しく親切にして頂いた方達には感謝の気持ちで一杯です。
ハワイでの最後の2014年のクリスマスや2015年のお正月は感謝の気持ちを込めて静かに過ごしました。 
1月は再びラスベガスに戻る引越しの準備に忙しく立ち向かい、月末の31日を最後にラスベガスに立ち去りました。
かくしてラスベガスの懐かしい良き古巣に舞い戻り、お互いに知り合って親しくなった友人との再会を交え、大変暖かく迎えて頂き喜んで幸せに思って居ります。
今月の4月に入ってやっと普段の生活状態に戻り大変有意義の有る愉しい毎日を過ごしております。  お陰で家内の体調も旧友との再接触で可なり元気を取り戻し順調にリハビリを続けております。  
私達は此の新居を最後の棲家として余生を愉しく過ごして行く積りです。 数年後には再び老護施設の世話になる事を肝に銘じて其の覚悟をして参ります。 ハワイはこれからも永遠の観光地として繁栄し続ける事でしょう。

アラモアナ パークビーチから見たサンセット




アラモアナ パークビーチから見たダイヤモンドヘッド




ハワイ カイの老護施設




ラスベガス コミュニテイーのプール エリア



ハワイの桜?を探訪

2014-02-07 17:21:48 | 花、植物





















私達は今から丁度3年前の2011年にこの生まれ故郷のホノルルに憧れてラスベガスから引っ越して来ました。 この常夏のハワイでは桜や梅等の鮮やかな満開風景は二度と見られないと思っていましたが、或る人の話ではこのオアフ島の南部のほぼ中心部に在る
Wahiawa(ワヒアワー)と呼ばれる小さい町に行けば日本人が住む家の庭に桜の木を見ることが出来るそうだが,何処だかははっきり判らないと言う事でした。 長く住んでいる人の中にも案外知らない人が多いのには驚きましたが、それだけ桜には最初から興味が薄いと言う事なのでしょう。 私自身も今まで諦めていました。 それが今年の2月に入って現地の小さい新聞の中から桜に関する切り抜きが非公式ですが「桜タウン」と称して「日本やワシントンに旅行しなくても綺麗な桜を楽しめます」と題して宣伝されていたものを近所の人が持って来て見せてくれたのでした。 戦後の1950年から遡って500本以上もの桜の木がこの涼しい気候の土地で植樹されて来たと伝えられていました。

その切り抜きの記事はWahiawaNikkeiCivic Associationからスポンサーされた企画で、担当者に拠ると毎年2月の最初の土曜日のみ、一年に一度のみ、何とその町で桜見物の為に20人乗りのバスが午前9時と11時の二回、一人$18ドル、各々90分間掛けて桜見物に案内してくれるとの事、更には特別に$5ドルの弁当まで用意されているとの事でした。 私がその記事を手にしたのは日曜日でしたので、その日の午後には好奇心一杯で早速家内を伴って馳せ参じました。 片道自動車で約30マイルの距離を40分掛けて
町の中央部に有るCaliforniaAvenueを北に向かって行けば道路脇に桜の木々を見る事が出来ると言われてドライブしたのでしたが、とうとう道路の最終点まで辿り付いてしまい、桜の木はほんの4,5本位しか見る事が出来ませんでした。 後戻りして見つけた民家の日本人に訊いてみると親切に色々とこの地域で見られる桜の木の場所を教わりました。 私が期待していた立派な桜の木は見られませんでしたが、未だ比較的若い桜の木が多く細くて低いものばかり、それに咲いている桜の花は普通のサイズよりやや小さいですが濃いピンク色のものが殆どでした。 ハワイの桜は全て沖縄からの桜だそうでした。 民家の人の話では2月現在の気候状況では満開の桜を見るには既にやや遅いと言われていました。

桜に関心を持つ日本人の一人として初めてハワイの桜の木を見て懐かしい思いを込めて出来るだけ沢山の写真を撮りましたが、その反面、これだけ多くの日本人が住む割には、自分たちの住む家の庭に植えられていた桜は一箇所だけでした。その他の私が見た桜の木は全て路上の道路脇だけでした。 恐らく個人的に桜の木の手入れはされていないのではないかと思われました。これでは態々トローリーバスを駆り出してまで見物出来る桜には適していないと思われました。 果たして見物に参加された方々の数が如何程で有ったのか判りませんが、興味が合っただけにがっかりさせられました。 或いは私が見過ごした桜の木は如何程のもので有ったのかも確認は出来ません。 最近のハワイは日本人の観光客で賑わっているので、ハワイの桜の満開風景が楽しめられる様にもっと力を入れて欲しいと願っていますが、やはり気候状況に拠る桜の木はハワイには向かないのかも知れません。 
  



























6年振りの日本想い出の旅を求めて:

2014-01-11 00:15:13 | 闘病・介護

8年間の闘病生活を経て

昨年2013年の10月に6年振りの日本旅行を決行しました。 家内が72歳で初めて初期の認知症状と診断されて以来8年経ちました。初期の診断から二年後になって圧水頭症の疑いが発覚されて脳の手術を施しましたが、既に手遅れとの事で回復の兆しは見受けられない侭、現在に至っております。 

2012年の8月には意識不明となり即時入院する事態となり9月に入って退院後は生命維持の安否に拠りホスピス介護管理施設に移され我が家で介護を続けて参りました。それ以来総ての服用していた飲み薬は直ちに中止された状態で週に二度の診察を受けて来ました。 体調は日増しに衰弱して朦朧とした日々を繰り返していました。 

所が2012年11月16日、金曜日の午後9時半頃から突然意外な嬉しい出来事が起こったのでした。 私達の親しい友人(女性)がラスベガスから訪問していた最終日の夜の事でした。 それまで長い間口もろくに利けなかった家内が何事も無かった様に突如として彼女に話し掛けて来て、驚いた私達は信じられない家内の話振りに次々に質問を投げ掛けて何時まで会話が続けられるのかと試して見たら何と1時間余り会話を続ける事が出来たのでした。 その時の信じられない嬉しさは生涯忘れられません。 その日以降の毎日はまるで目が覚めた様な別世界に暮らす楽しい日々を迎えました。

家内の容態が回復し始めたかの様に見えた様子を詳しく医師に説明した結果、医師にも不可解な結果に回答出来ませんでしたが、早速2013年の1月からリハビリを始めて見る事にしました。最初の数ヶ月は家内には厳しくて拒否していましたが、徐々に動作が機敏になり始め漸く歩行器具を利用して独りで歩行出来るまでに丈夫になったのです。

その頃から家内が漸く元気を取り戻した間に出来る事なら日本に居る身内に再会させて遣りたいと思う気持から日本旅行を決定したのです。 そして2013年7月18日に不意な事故を起こしたのでした。(ブログ 2013年12月27、29日参照)

9月月末まで一生懸命リハビリに専念して10月の季節を選んで30日間の日本旅行に踏み切ったのでした。 旅行には車椅子と歩行補助器具(Walker)を備えての旅仕度を整えて無事30日間の日程を完了させて元気にハワイの我が家に帰宅しました。 

異変が発生

10月31日に無事ホノルルの我が家に戻り30日間の終えた日本の長旅の疲れを一気にして寛いだのです。 つくづく我が家でゆっくり寛げられる良さ、嬉しさ、そして安心感に満たされ元の生活に戻ったのです。 11月は毎日身体を休めて元気を取り戻し日本での楽しかった想い出に耽って過ごしました。 11月もアッと言う間に過ぎ去り12月に入ってから少しづつ家内の体調に不安が募り始めたのです。 あれほどリハビリで頑張って体調の回復振りに日本の皆も驚いて喜んでいてくれて居たのに、又何時しか体調が崩れ始めました。 まるでリハビリを始める以前の状態になりつつ有るのです。 僅か一ト月の間の疲れの休息でこれ程までに素早く体調が衰弱するとは思いも寄らずうっかりしていました。 今までどんなに苦労して来た私とした事がこのような結果を生み出した事に凄く腹立たしく思われ、悔やまれています。 それとも家内は既に限界に達したのではと言う思いも大いに考えられます。 先ず気付いた事は家内が急に歩けなくなって来た事です。思えば、リハビリで鍛えた筈の足は日本の30日間の旅行中には殆ど車椅子に頼らざるを得なかった事、歩行は部屋内だけに留まっていたのが最大の原因かと思います。 だから11月に戻ってからも休まずに歩行訓練に励んでいたら良かったのです。 然し11月は私自身に取っても30日間の疲れを癒すのに必要な休息でした。
次に気付づいた事は家内の話し方に異状を感じました。舌が回らなくて言葉がはっきり話せなくなり、話したい言葉が思い出せなくなりました。 そして意味不明な言葉を発する様になった事。 その言葉は再び訊いても繰り返して言えないなど言語障害の状態が現れ始めました。 会話は何時も不完全で全てを言い切れずに終わってしまいますが、どうにか通じています。 それに全てに置いて動作が鈍くなって来ました。 痴呆症状を伴う認知症状だと言われて来ましたが、これが将にその状態である事を実感しています。年を取ると仕草がだんだん子供に戻ると言う事を良く耳にしていましたが、それも頷ける様になりました。 何とも言えぬ寂しさを感じます。


脳の活性化に依る回復の兆し?

長年の孤独な闘病生活から抜け出して久し振りに懐かしい身内の再会や新しい出会を体験し、更には愉しかった観光旅行の数々を観覧した事では、家内に取っては可なりの刺激を受け脳の活性化に繋がった事で見違える様に正常な行動や動作が身に着いて来た様に思われ、皆も同感して喜んでいました。

愉しかった記憶は未だ脳裏の隅に焼き付いて残っています。 記憶喪失の症状は決して回復した訳では有りませんが、何時までも良い想い出として覚えていて欲しいです。 
家内には最早一から遣り直しする事は不可能でしょうが、私の存在が記憶に留まっている間は最善の介護に努めて余生を送る覚悟でいます。

日本で大変お世話になったゆらさん、ぷうさん、ひろし爺さん、その他の方々には斯様な結果報告のブログとなり大変心苦しく思い、申し訳ない気持ちで一杯です。 然しお陰様で家内の脳裏には愉しかった一生の想い出をしっかり留めて居ります。 本当に有難うございました。心より感謝しております。 
  

認知症と宣言された妻の愛を求めて {其の二} ~ 日本30日の旅

2013-12-29 01:38:13 | 闘病・介護



{継続 12月27日}

7月18日に最寄りのデパートに買い物に出かけ駐車場から其のデパートに 入る手前の路上で家内を載せていた車椅子が地面の窪みに気付かず、車椅子と共に後ろ向けに横転して左の後頭部を地面に打ちつけたのでした。 瘤は出来でいたけど外傷は無く大丈夫と思って居たけど、帰る自動車の中で大量の嘔吐を繰り返していたので午後はずっとベッドで休ませていましたが嘔吐は繰り返し続けていました。早速翌朝医者に連絡をすると直ぐに病院に入院の手続きをするように指示されました。
CT Scanの結果では可なりの脳内出血を起こして居たので入院して様子を伺う事になり最 悪の場合には手術も必要となると言われて覚悟をして居ました。毎日スキャンで出血の状態を確認した結果では出血は完全に止まっている事が判明しました。安全確保のため26日まで監視状態を続けやっと退院出来ました。 

家内が未だ元気な内に日本の身内に逢わせて置きたい思いで日本訪問を決定し秋の季節を選んで10月から1ヶ月の日程に取り組みました。4年越しのブログで親しくなったぷうさんやひろし爺さん、並びにゆらさん達の暖かいご協力を得て部分的区域の観光案内をして頂く事になりました。 

先ずは家内の妹、弟、甥達が住む東京から始まって、名古屋、京都、琵琶湖、広島、宮島、岩国、更に九州の別府と長崎まで足を伸ばして参りました。 岩国には有名な錦帯橋や岩国城が有り、私の姉夫婦が長年住んでいる場所です。 東京ではゆらさんに築地の魚河岸市場を初めて視察させて頂き新鮮な大盛りの握り寿司でお腹を満たした後は隅田川の水上観光ボートで浅草まで約40分の水上旅行を愉しみました。 浅草まで来ますと其処から聳え立つ東京スカイツリーを臨む事が出来ました。
浅草では数多くの観光客と混じって修学旅行で来ている学生達で大賑わいの有様でした。
又他の日には私の姪夫婦の家族の案内で都内観光バスで見物させて貰いました。 

終戦直後から中学以来親しくなった親友のosamuさんとも元気な姿で再会する事が出来て凄く嬉しかったです。 彼との消息は途中で数回途切れましたが、縁が有ってやっと探し当てた古い親友です。
京都と琵琶湖方面では私の二番目のosamuさんと同期の親友の計らいで豪華なホテルに招待され彼とは何と68年振りに初めての再会で涙が出る程懐かしく嬉しかったです。 その後は先ず姉夫婦の住む岩国を訪れ、其処では有名な錦帯橋や岩国城をぷうさんとひろし爺さん達にご案内して頂きました。 岩国には更にもう一人私の三人目の同期の親友にも同じく68年ぶりの再会を果たしました。
更にその翌日には広島市内の原爆ドームや資料館を見学、ぷうさんには私の家内を乗せた車椅子を押しながらのご親切なご案内には本当に恐縮いたしました。 ひろし爺さんには寧ろ写真や動画を専門のカメラで撮影して頂きました。 因みに私が12歳の中学1年生の時に学徒動員の一員として原爆投下の前日までは市内の中心地で勤労奉仕に携わっていたのですが、原爆当日は2学年の上級生と交代させられたので運良く被爆から免れる事が出来たのでした。哀しい想い出を思い出しました。 昼食には近くに有る広島名物の「お好み焼き」を「お好み焼き村」と呼ばれる専門店で皆で楽しく頂きましたが、流石に美味しかったです。 

昼食後からは今では世界遺産となった宮島(厳島)に渡って参拝して参りました。 宮島の近くで幼少の頃から育った場所なので此処も68年振りに訪れたので大変懐かしかったです。 宮島は美しいもみじの紅葉でも有名なのですが残念ながら未だ伺うことは出来ませんでした。 此処でも大勢の外国人の観光客や修学旅行の生徒達で大賑わいでした。 帰りがけには私が幼少の頃家族ぐるみで随分お世話になった親戚の家が現在も頑丈で昔の侭の懐かしい建物を見届けて胸が痛くなる程、懐かしく思いました。 私は原爆投下の日にもこの家の二階の部屋から原爆のきのこ曇を眺めていたのでした。

今も振り返って思い出しますとぷうさんやひろし爺さんご両人には実にご親切な「おもてなし」を授かり大変ご苦労様でした。 一生忘れられない素敵な想い出を沢山作らせて頂きました。 お陰で家内も記憶に残る想い出になった事と思います。 家内本人の口から直にお礼の言葉を掛ける事は出来ませんが大変感謝しております。  

最後の週には別府と長崎まで新幹線で乗り継いで参りましたが、別府では二日間雨模様の天気で、他の観光客も含めてホテルで足止めとなりましたが、別府を去る時、雨の中をタクシーで市内の案内をして頂き湯煙が立ち上る別府ならではの独特な風景をカメラに捉えただけでした。 其処から長崎には初めての場所で坂道の多い丘のある街でしたが、小高い丘の頂上にそびえ立つ様な大きいホテルで矢太楼(ヤタロウ)と言う名の知れたホテルに二泊する事になりました。 其処は特に名指しして見付けたホテルでは有りませんでしたが、綺麗で気持ちの良い大きいホテルでしたので安心して休めました。 最初に予約した部屋は一寸狭過ぎて車椅子も入れない位でしたので翌日広い部屋に移動させて頂いたら、別館の建物に空いていた部屋に案内されましたが、それが何と昭和初期に天皇がお泊まりになられたと言ういわれの有る立派で広くて眺めの良い部屋に案内され然も割安の価格でゆっくり泊まる事が出来ました。其処から眺める夜景は最高でした。 長崎では晴天に恵まれていたのでタクシーを雇って市内や原爆資料館などに案内して頂きました。 広島の原爆状態と比較して可なり違った内容の規模の状況でしたが、良い参考となりました。 残りの数日を残して再び東京に戻り、最後の日には又ゆらさんのご案内で横浜までドライブして頂き、港が見える丘の綺麗な薔薇公園やその近辺のチャイナタウンを散策、昼食には勿論中華料理をご馳走になり新たな想い出が出来ました。 
ゆらさんと優しい旦那さんに感謝感激でした。 旦那さんにも家内を乗せた車椅子を押して公園内を散策して頂き、お疲れ様で有難うございました。

愈々最終日の10月31日には成田空港からホノルルの我が家に無事戻りました。 丁度8時間掛かりハワイ時間では同日の31日の朝8時過ぎに着陸しました。 何と言っても我が家程ゆっくり寛げられる場所は他には有りませんね。 皆さんには本当に多大なお世話をお掛けして一生の素晴らしい想い出の旅を遂げる事が出来ました事に深くお礼を申し上げます。

11月に入ると毎日我が家でゆっくり寝そべって長旅の疲れを癒しました。 家内も人に気兼ねをせずに充分に休められる我が家に大喜びで、もう当分の間旅行には行きたくないと申しております。
旅に出掛ける前日まではリハビリで鍛えた両足で観光を楽しめると軽く思っていましたが、 30日間の殆どは色んな状況に依って車椅子に頼らざるを得ない事が多く、歩行をするのは部屋に居る時だけの短時間でした。 身体の疲れが解消された頃には思いもよらない事態が待ち受けていました。 

先ず独り歩きが非常に困難になり始め夜間のトイレの用足しにベッドから立ち上がる事が難しくなり私の援助を必要とする様になったのです。 それに日常会話がたどたどしくなり中々はっきり喋られなくなり始めた事、話したい言葉が思い出せない等の言語障害が目立ち始めていますので気になっています。 一般に動作が鈍くなって来ました。 一度に脳の刺激が治まるとこれ程までに体調に影響するものかと驚かされています。 毎日決まった身体の動きは大変重要な事だと思い知らされています。 然し記憶の方は意外と覚えている事が多く逆に驚かされる事が多いくらいです。最近は以前の様に同じ質問を繰り返さなくなりました。 色んな状況に慣れて来たからでしょう。 今年は残す所数日で無事に新年を迎える事が出来る事は嬉しく思っていますが、来年は今年よりももっと厳しい日々が待ち受けている事を予期して前向きに頑張って参る所存です。 

皆様に取りましても何卒より良い年となります様に末永く、ご多幸とご健康をお祈り致します。

今回は一先ず東京スカイツリーのみの写真を掲載させて頂きその他は次回にご覧頂きます。 

ALOHA
   
         浅草から撮影した写真です。
         
         


         


         


         


         







認知症と宣言された妻の愛を求めて {其の一}

2013-12-27 03:21:25 | 闘病・介護
大変永らくお休みをしてご心配をお掛けし申し訳ございませんでしたが、この度新規に更新させて頂きましたので今後共宜しくお付き合いお願い申し上げます。

今年の1月7日に新年の挨拶を乗せ、嬉しい励ましのコメントも頂戴し、更に1月14日にはアウラニホテルに就いて簡単な紹介をしたのが最後のブログの記事となりました。ブログに相応しい内容の記事に有り付けなかったのです。

今になって振り返って見ますと、その後家内の病状が一転して以来、それまでの介護の対応がやや変わって来ました。 家内の日常の動作が幾分機敏になった事、会話の時間が増えた事、顔色やその日の体調を伺いながら新規に遣り始めたリハビリに取り組みました。最初は嫌がるリハビリの厳しさについて行けず、励ます事に一生懸命でした。 徐々に独自で食事が取れる様になり体力も少しづつ備わって来ました。親しくなった近所の人達からの励ましの声援も掛けられる様になり片言の会話も交わせる様になって順調に回復して行く様子が伺われました。 

こうした少しづつの変化に依って私の介護に費やしていた時間が何時の間にか日常日課となり、自分自身の纏まった時間が取れなくなっていました。 毎日の日記を継続するだけでもやっとの事で、ブログの記事を書く時間が取れなくなったのです。 私のパソコンに向かう纏まった時間は家内の頻繁に声を掛けられる事で邪魔をされていたのでした。 家内の頭の中には沢山の空間が出来ており、不安一杯の気持ちを私に投げ掛けていたのです。 認知症特有の健忘症に依る記憶喪失の為、毎回同じ質問を繰り返して訊かされる毎日でした。 その都度、私は同じ口調で家内の質問に応えてやっていましたが、その内にどうしても苛々する気持ちを抑える事が難しくなり時には声を荒げる事も屡々有りました。

そんな私に家内は今度からテープに同じ返事を録音して聞かせてくれれば良いからと自ら私への気配りをしてくれていました。
こんな日々を知らぬ間に過ごしていた7月の18日に不意のアクシデントが起こったのです。
この続きは次回の記事に記載させて頂きます。

 アウラニ デイズニー リゾート & スパー

2013-01-14 17:03:40 | 文化・イベント

このオアフ島の西海岸沿いにコオリナ(Ko Olina)と言う小さい町はカポレイと言う町に属しており、このアウラニ デイズニー リゾート & スパー及び直ぐ近くには美しいゴルフ場も有り、ホノルルからは約30マイルの地点で特に子連れの観光客の間では可なりの人気がある様です。 因みに一泊$460から予約出来ます。 猶、年末のシーズンには1泊$750+となっていました。海岸沿いには美しいラグーンが4箇所設けられており、其のうちの一箇所は直接ホテルから出入り出来て、水泳、スノーケル、及び日光浴等楽しむ事が出来ます。 




謹賀新年

2013-01-07 11:31:16 | 文化・イベント
皆様憧れの平成25年の新年、明けましておめでとうございます。 本年はきっと素晴らしい恵み多き日々の訪れを夫々にご期待されて居られる事とお察し致して居り、更には皆様のご多幸とご健康をお祈りして居ります。 何事も前向きに新たな希望を目指して頑張って頂きたいと思います。 

昨年中は色々な出来事に遭遇しましたのでブログの更新は愚か、年末のご挨拶も叶えませんでした事、心よりお詫び申し上げます。 今年も私の拙いブログの内容ではありますが何卒宜しくご指導下さいます様、宜しくお願い申し上げます。

昨年の後半には過去数年来に亙る家内への介護の結果、一時は生命危機にも及んだ事も有りましたが無事乗り越える事が出来、更には信じ難い奇跡的な回復の兆しを突然にして授かりました事で私に取りまして最高のクリスマス プレゼントとなりました事、今まで暖かいご支援、並びにご心配して頂いていた皆様方には是非ともお報せし喜んで頂きたいと存じます。 お陰様で昨年のクリスマスや今年のお正月はこの上も無い最高の悦びを以ってお迎えする事が出来ました事、唯深い感謝と感激に浸って居ります。 本当に有難うございました。 今後の家内の回復振りの様子もご報告させて頂きながら頑張って参る所存です。 

現時点では未だ完全回復とは言えませんが、独自で食事が取れ、僅かながら立ち上がる事も出来る程に元気になって来ました。 尤も嬉しい事は殆どの会話が普通に交わせる様になれた事で意識もしっかりした内容で相互の理解が得られる事です。 然し未だに記憶喪失の問題はやや残っては居ますが、何しろ数年の空白期間の為、多少の混乱は暫く継続するでしょうが、時間が解決してくれる事を信じております。 もう一つ驚かされた事には、家内がホスピスの施設に属して以来約3ヶ月間の間、総ての処方されていた飲み薬の服用は完全に中止されていましたのにも拘わらず、血液検査の結果報告に拠りますと何と総てが正常な結果として現れていた事です。 それ以来現在に至っても飲み薬は一切服用していません。 後はリハビリに拠る体力復元の問題だけ(?)です。 若しかして飲み薬を中止した事が脳の活性化に繋がったのではと思われるのですが、確認は取れていません。 主治医も驚いていますが飲み薬の中止には承認されています。 今後の成り行きを見守っていて下さい。 

ハナウマベイ ビーチの散策

2012-08-06 12:28:19 | ビーチ風景
今回は昨年に続いて2度目のハナウマベイ ビーチの散策として訪れ駐車場とパークが有る丘の上から見下ろした美しいビーチの様子を捉えました。 毎朝6時(午前6時~午後7時)には開場されますが今朝は9時半には既に駐車場が満杯の状態で入り口には「Parking Lot Full」のサインが置かれていました。それでも空きを待つ積りで入って行く客もいました。

バスでも結構観光客が訪問していました。 午前中は丁度干潮時で彼方此方の場所ではビーチ内のサンゴ礁が剥き出し状態になっていましたが、その代わり海面が普段より可なり穏かで水泳やスノーケルには最適な状態でした。 

入場料金は大人(13歳以上)は$7.50、12歳以下とローカルの訪問客はFreeです。
駐車場料金は$1です。 毎週火曜日だけ休業で、この日は魚達に餌を与える日に設定されています。 

ビーチまでは坂道を歩いて降りますが、シャトルバスも利用出来ます。降りる時は$1、戻る時は$1.50掛かります。 

画面をクリックすると拡大されます。