愉しい触れ合いを目指してゆとりの有る人生を歩みましょう

平凡な日常生活にまつわる拘り情報、写真、並びに体験談等を交えて皆さんとの交流を深めて参りたいと思います。

家内の病状の経緯に就いて

2010-03-01 17:48:50 | Weblog
家内の病状の経緯に就いて

年初め早々からブログの投稿をお休みさせて頂き大変失礼致しました。 
皆様は何方も張り切って身辺のご様子など楽しそうな記事を投稿されて頑張って居られるのに私だけ独り置いてきぼりにされた様で、遂焦り気味になってしまいました。  
大変遅くなりましたが、先ずは勝手ながら私の身辺の話から投稿させて戴きました。

2003年の5月に長年住み慣れたロスアンゼルスを後にして私達の第二の引退生活がラスベガスの新築の家で始まり新たな希望に満ち溢れていました。 当時私は70歳、家内は69歳でした。
2004年の後半頃から家内が同じ内容の会話を繰り返す回数が少しづつ多くなるのが感じられ始めたのでした。
2005年の1月に医者の勧めで初めて脳のMRIを撮り老衰による脳の萎縮されている状態が発覚されましたが、この時点では未だアルツハイマー症状であるとは認定されていませんでした。
同じく2005年の5月には股関節手術を施しリハビリを続けて半年から一年前後には歩行が出来るようになると予測されていました。
2006年の10月に約6時間位の長時間に亙る口答に拠る神経生理学精密検査の結果、初期のアルツハイマー症状と診断されました。 当時は未だ股関節手術後のリハビリ継続中で車椅子での生活状態でした。
2007年に掛かり付けの神経科医の引退に拠り新たな医師の元で診察を受ける事となり、この医師の勧めで正常圧水頭症と呼ばれる症状の疑いを持たれ、2008年の9月になってシャント手術を施す運びとなり現在に至っています。  この間、約2ヶ月毎の間隔で脳のCT Scanを撮りその都度脳脊髄液の圧迫度のレベルを上下させながら調節して適切なレベルに達するまで繰り返して来ましたが、一向に良くなる兆しは見られず、徐々に進行するばかりの状態が続いて来ました。
リハビリの効果も同じく一向に上がらず未だに歩行困難な状態を繰り返しています。
精神科医はもうこれ以上施す手当てが無いとして今まで通りの介護を引き続き続けるしかないと言われています。 一方脳外科医の方ではこれからも根気良くCT Scanを撮りながら脳液の調整を施して長い目で診て行くと力付けてくれています。  
2月23日に最後の診察に出掛けて新たな変化が僅かながら初めて見られたのでした。 
2月11日に脳脊髄液の圧迫度のレベルを最低限まで下げて、その後15日に撮った脳のCT Scanに拠ると今までは脳のサイズが脳液の圧迫度に応じて肥大していたのが、今回では肥大していない事実が確認された事を知らされました。  若しかして前回調整した脳液のレベルが適切で有る可能性が濃いいのでこの度は調整しないままで次回3月23日に撮るCT Scanの結果を診る事になりました。 気の所為か家内の動作が以前よりは反応が良いと感じた部分が伺われました。
今まではこの症状が正常圧水頭症ではなかろうかと発覚された事が遅かった為にシャント手術を施したのが遅かった為、その効果が現れなかったのかも知れないと言う疑念を持っていましたが、必ずしもそうでは無いと脳外科医は断言していました。 一時は手術の遣り直しまで考慮していたのですが、その必要は無いと言われて来ました。 
私は家内の症状が一向に回復しないばかりか、日増しに衰弱していく家内の様子を何度も見詰め直し、手術の成果も見られる事無く唯介護に身を尽くす事しか残されていないのかと断念し始めていた矢先の事でした。
此処で改めて家内は最初から認知症(アルツハイマー)と誤診されていたけれど、 やはりそうでは無くて、正常圧水頭症と言はれる脳が肥大する特徴が有る病状と認知症状に似た症状も入り混じった病状で有ると診断されています。 そう言えば認知症には脳が肥大する病状は現れないと言われています。 それとちょこちょこ歩きをする動作や大小便失禁が起こる病状は正常圧水頭症の独特な症状で有ると言われています。  家内が股関節の手術を行って以来全く問題は無い筈で有ったのに歩行不可能な状態になった侭で、現在に至っています。 
リハビリでは一番力を入れて居るのですが、良くならないのはやはり脳の機能に障害が有る病状の所為なのでしょうか? 足を思う様に動かす運動神経が禍しているようです。  
僅かながら最近では言語障害も目立つ様になり、言葉が思うように出て来ない為にはっきり話しが続かなかったりして、言いたい事を上手く言い尽くせない事が多くなりました。  此れは人と話したりする機会が無くなったので無口になっているのが原因です。 又人と接してもまともな会話が続かない為に話し掛けて来る人も本人も嫌がって人込みに接する事を嫌います。 
若し家内が認知症を患っていたとしたら恐らく今日まで生存はしていないでしょう。  
私の80歳になる従姉妹がほんの2年前まで元気な姿で私達を訪問していたのに、その後認知症を患い昨年亡くなりました。  認知症を患うと平均3年後には家族も判別出来なくなり亡くなって逝かれるそうです。  

今年早々にこの様な陰気臭い記事でブログに投稿し、さぞ暗い気持ちにお誘いした様で真に申し訳無く思っておりますが、少しでも私の体験をご参考にして戴ければ幸甚に存じます。
正常圧水頭症に就いての説明は昨年にも数回に亙って記事を投稿していますので参考にして下さい。
何卒気分を持ち直して次回の記事に目を通して下さい。  ラスベガスは暖かい日が続いています。  


2月のブログ投稿はお休みします

2010-02-13 22:52:52 | Weblog
今年に入って1月の記事を最後に今月も含めて記事の投稿を控えさせて頂きます。
様々な家事の雑用と家内の介護に明け暮れしており、纏まった時間が充分満たされませんので皆様のご期待に背いて参りました事に申し訳なく思って居り、又、お伝えする相応しい話題に乏しく非常に心苦しく思っております。 

3月からは再び此方の情報をお伝え致しますのでそれまでご辛抱の程、お願い申し上げます。 

ラスベガスのNew Year Eve 2010年を迎える

2010-01-15 14:59:14 | Weblog

謹賀新年

ラスベガスより明けましておめでとうございます。 本年も宜しくお願い申し上げます。
静かに迎える日本とは異なり、華々しく盛大な花火の打ち上げと共に迎えるラスベガスの新年は「HAPPY NEW YEAR!!」と大声を振り絞り賑やかに2010年の新春を迎えました。

新春のご挨拶が遅くなりましたが、日本の皆様方のお正月は如何お過ごしになられましたでしょうか? 今年こそは皆様に取りましてより良い年となります様に、そして何事にも前向きに健やかにお過ごしになります様心よりお祈り申し上げます。


ラスベガスの新しい顔、Citycenter Placeが遂に公開!

2009-12-24 01:20:43 | Weblog

5年前に始まったCitycenter Place の建設工事がようやく完成し公開されました。場所はラスベガス通りに面したモンテカーロとベラジオの間でTramCars(モノレール)で接続されています。其の広大な敷地内には先ずCrystalsショッピングセンター、並びに、Aria Resort Hotel Casino、The Vdara Condo Hotel,Mandarin Oriental Hotel, The Harmon Hotelなどが建設されています。
 
画像の枚数は40枚。

クリスマスとお正月を目前に目指しての公開で、今年の不況を吹き飛ばし、新しい2010年を迎え打つ大盛況となる事でしょう。 

猶ウエブサイトでCitycenter, Las Vegas と Crystalcenter, Las Vegas で検索されますとYouTubeで詳しく説明、写真などご覧になれます。

今年最後のベラジオ ホテルでのクリスマスの飾り付け

2009-12-10 13:16:31 | Weblog

今年最後のべラジオ カジノホテルの植物園内でのクリスマスに因んだ飾り付けが去る6日に繰り広げられたので早速午前中に出掛けて見た。 何時もベラジオ ホテルに行くにはフラミンゴ通りを真っ直ぐ行けばストリップの交差点に辿り着き其処で右折すれば直ぐ右側に広い溜池が見えて来るのである。 所が、この日は日曜日でたまたま企画されていた有名なマラソン大会が行われていた日だったのでストリップに辿り着く手前の大きい道路が完全に遮断されていてストリップまで行けなかったので思わぬ渋滞に巻き込まれ大周りをする羽目になった。 やっと抜け出して少し離れた道路から再びストリップに入ろうと試み、今度は如何にかストリップの直ぐ傍まで行けたのに又もや右折禁止でバリケードが張られていて否応無しに再び渋滞に巻き込まれ今度は全く動きが出来なくなって約40分位立ち往生を食らった。 何と迷惑至極なマラソンの為にとんでもない目に遭わされて流石に苛苛しないでは居れなかった。 其の場所は道路ではなくてホテルの駐車場ばかりが連なっている細い裏道で逃げ場が無く、渋滞状態を整理する警官すら居ない。兎に角何処でも構わないから自動車が動ける方向に向かってやっと抜け出したら既にランチタイムになっていたので、行き当たりばったりの韓国レストランに入って腹ごしらえをした。 食後は再び凝りもせず今度は無事ベラジオに辿り着いた。

2009年度の不況をやっと乗り越え年末の締め括りをクリスマスに託して愉しく祝い、新春の2010年を健やかに迎えてより良い平穏な年となるように最善の努力を尽くしましょう。
44枚の画像でごゆっくりお寛ぎ下さい。 猶、画面の左下の角をクリックして頂くと拡大出来ます。

(不鮮明な画像のお詫び)
後半の終わりに近い数枚の画像は動画から一齣づつ選び出したもので画像の鮮明さに欠けて非常に見難い点に就いてはお詫び申し上げます。ご覧頂き有り難うございました。

現実を見つめて

2009-11-26 00:20:26 | Weblog

今までに散々家内の容態に就いて色々と恥も外聞もなく一方的にブログに書き綴って参りました。 認知症状と正常圧水頭症の実態が如何なるものかをあからさまに私が体験した事を書いて来ました事は決して私に対しての同情を求めるものでは無い事はご理解して頂いているものと思います。 或る意味では家内を恥曝しにした様に思われ夫として恥ずべき行為と看做され快く思われない形に取られるかも知れませんが、本人には正常な意識を持って日々をまともに暮らせる能力は最早持ち合わせていない状態に有る事を考慮して頂きたいと思います。

下記に示す説明はウエブサイトよりコピーした一部ですので参考までにご覧下さい。
正常圧水頭症の症状は?
三大徴候
o痴呆 物忘れが多く、自発性や意欲の低下が目立ち、日常動作が緩慢となります。
o歩行障害 小刻み歩行で不安定、片足立ちが困難となります。進行すれば一人で歩けなくなります。
o尿失禁 尿意を催してから排尿するまでの時間が短い(尿意切迫)ため、失禁してしまいます。

正常圧水頭症の治療は?
脳室- 腹腔シャント手術のように余分な髄液を身体の別の部分から吸収するためのシャント手術が行われます。手術は、発症3か月以内、遅くとも6か月以内に行わなければ効果が期待できないとされますので、症状を放置することなく、神経内科医と脳外科医の連携の基に早期診断、早期治療が行われることが必要です。

猶、アルツハイマー型認知症に就いては数多くの種類と様々な説が表記されていますので、此処では載せません。

圧水頭症は非常に認知症と類似した症状が多く見られるので認知症と誤認されがちですが、余程経験豊富な専門精神科医でないと誤診されるケースが多いと信じています。私の家内の場合は正に其の被害者の一人です。 今になって思えば、何故最初から圧水頭症の可能性を疑って治療を施して貰えなかったのであろうかと悔やまれます。もう4年間が経過しております。 
今となっては認知症も兼ねた症状で有ろうと新たな診断の見方をされています。全く区別出来ない症状だと判断されています。猶、再手術の検討は来年まで見送りされる事になりました。同時に第三者の専門医のセカンド オピニオンも検討されていますが、余り期待はしておりません。

脳梗塞を患って居られる方達のリハビリと異なる点は自ら良くなろうとする努力をする気力の違いに有ると思います。 家内の場合も勿論リハビリを必要とされていますが、自ら手足を動かそうとする意思が全く見られない状態ですから体力は益々減退する一方です。脳に何らかの刺激を加える事が必要なのですが、全くの無気力で何も興味を示しません。態と怠慢な態度を取っているかの如くに振る舞う様になって来ました。 会話の節々にはしっかりした口調で語る時と全く言葉にならない意味不明な言葉を発する事も多くなって来ているのが現状です。

過去4年間の間に社交的、お節介焼き、多趣味、気性の激しかった家内の性質は完全に変化して今でも信じられないくらい別人になりました。認知症で良く見られる徘徊や暴力沙汰の症状が無いだけでも楽で幸せな事だと思っています。 かくして唯無償の愛情を精一杯尽くす毎日を送っています。 これが我が身に授かったどうしようもない運命として前向きに頑張るのみです。 幸いな事には私が未だ元気な引退の身で充分な時間が取れて介護して遣れる事です。

若しご質問がございましたら何でもご遠慮なくお申し付け下さい。又如何なるご忠告も喜んで承ります。 

人は皆、様々な夫々の人生を定められた運命と共に歩んで生きて行くのです。現実を見つめて悔い無き人生を有効に最善を尽くして前向きに頑張って下さい。 

家内の不自然な仕草に「何故?」

2009-11-10 13:36:34 | Weblog
ごく最近になって今までに見られなかった不自然な家内の仕草に色んな疑問を持ち始めた。

以前はテレビに全く関心を抱いていなかった彼女の毎日は今では一日中ソファーの上でテレビを見ながら過ごしている。 とは言っても決して毎回楽しんで見ているのではない。殆どは寝ている事が多い。 番組の選択には一切文句は言わないで放映されている番組を見ている。 時折笑っている事も有るがドラマやニュース等の内容の殆どは興味を持って見ていないので充分な理解はしていない。 

食事は何時も同じソファーに座った侭で、直ぐ傍まで車の付いた円形のガラスのテーブルを寄せて食べさせている。そんな或る日、食べ残したおかずのお皿の上に漬物を箸で抓んで並べ始めたが一向に食べる様子は無い。 其の内に今度は其の漬物を飲み掛けのお茶のカップの中に入れ始めたので直ちに止めさせて取り除いた。 其処で「何故そんな事をしているのか?」と訊くと唯「I don’t know!」と言う返事だけが返って来た。 又、或る時はスナックのお菓子を食べさせていたが、其の内にお菓子の入れ物から取り出してテーブルの上に重ねる様にして然も綺麗に並べ始めていた。 

そして先週、未だ若かった頃活け花に興味を持ち教授の資格まで取った彼女は花が大好きで、元気だった頃は我が家には花は欠かさなかった彼女に、庭から摘み取って来た3本の薔薇を小さい花瓶に入れてガラスのテーブルの上に持って来て遣った。 彼女は大変喜んで微笑みながら匂いをかんでいたが、暫くすると知らない内に何と,其の薔薇の花びらが総て無残にもぎ取られてテーブルの上に山盛りに積み上げていたのを見てびっくり仰天、と同時に凄く悲しさが込上げて来た。彼女がその様な仕草をしたのは始めての事だった。 言い様の無い憤りと怖さを感じた。私はその時咄嗟に声が出なかった。 彼女の表情は穏やかだった。 私はやっと唯一言「如何して?」と彼女の顔を覗き込む様に見ながら訊ねたら、泣きそうな顔をして唯「I don’t know」の震えた一言を口にして私の顔を見た。 私もそんな彼女が余りにも哀れで泣きそうになり、思わず肩を抱きすくめてやった。 

未だ新鮮な薔薇の花びらはテーブルの上に積み上げた侭で、傍には茎と葉っぱだけが花瓶にささった侭の状態を暫く眺めていた。  テーブルの上に山積みにされていた花びらを見て何か不吉な恐ろしさを覚えたと同時にとても悲しくさえ思ったのだ。 その様な仕草をしでかした家内の異様な不自然な態度が可哀想に思えた。 花が大好きな彼女が何故むしり取る様な行為をしたのか、気でも狂ったのかと思った。

同じ家に居ながら私が彼女の傍を離れてパソコンに取り付くと、彼女は何時ものように私の名を連呼し始めるのだ。 最初は呼ばれる度に返事をしていたが、彼女の応対は無く更に連呼を続けるので、私も彼女の呼びかけには無視する様になった。 其の内ノイローゼ気味になって来る自分を感じる様になった。 彼女に「何故呼び捨てにするのか?」と問いただすと、「何でもないよ」と言うさりげない返事だけ戻って来る。

猶、彼女は未だに失禁状態が続いて居り歩行も困難な上に動作が鈍くなっているので排便の抑制に間に合わないのだ。 彼女は4年半前にアルツハイマー症状と認定されたが、昨年の夏、検診を重ねた結果、正常圧水頭症と言う始めて聞く病名に変更された。 シャントと呼ばれる脳手術が行われた後も定期的に脳脊髄液の調整が施されて来たが、今日に至っても期待された回復の兆しが見られない事からシャント手術の機能が適切に作動されていないのではないかと疑われており再手術が近じか検討されている。

彼女の意識が継続している限り私は何時までも希望を捨てないで前向きに頑張って行くしかないと覚悟をしている。 幾ら頑張っても運命には逆らえない。 今出来る事は何でも躊躇しないで遣り遂げる事を考えている。

フーバーダムの橋桁建設工事の現状を見る (其の#4)

2009-10-28 11:33:40 | Weblog


前回の9月13日付け「其の#3」に引き続いて今回は「其の#4」と題してアーチの接続完成した上に最終的なハイウエイを支える橋桁の建設工事の様子を紹介しています。この橋桁も間近に完成され左右から待ち臨んでいるハイウエイの接続も来年度には完全に完了する事でしょう。 この日25日は日曜日とあって観覧客の足並みも何時もより数多く観光バスも見られて賑わっていました。 

午前中の日差しを受けて橋桁建設工事の状態を撮るにはやや逆光線になり期待したほどの鮮明な画像には至りませんでしたが、Movieも並行して撮った中からの部分的なスナップ写真も含めてデジブックに乗せましたが、それらの写真は可なりぶれていて見難い映像ですがご了承下さい。 Movieで橋桁の建設工事の状態をクローズアップで詳しく見ることが出来ます。 デジブックで見る動画の枚数は52枚ですのやや時間が掛かり過ぎ(20分経過)に感じますがごゆっくりご覧下さい。
(訂正:終わりの湖の景色の左側がネバダ州です。右側がアリゾナ州になります。)

尚、Movieは後日編集してYou Tubeで紹介させて頂きますのでご覧下さい。

此処ネバダのラスベガスやアリゾナでは殆ど砂漠地帯で覆われていますので、秋の紅葉の季節には関係無く、殺風景な荒々しい自然のごつごつした岩肌ばかりの光景で、北部に足を踏み入れない限り紅葉の景色には有り付けません。

途絶えていた近況報告

2009-10-21 09:02:06 | Weblog
2週間半振りの息抜きをさせて頂き皆様にご心配をお掛け致しまして誠に申し訳ございませんでした。
季節の変わり目に入り朝夕の気温も徐々に冷えて参りましたが、何卒くれぐれもご注意なさって下さいます様に。

突然のパソコンの不調に暫くの間手足を奪われた事態に遭い、急遽新たなパソコンに取り替えてやっ
と立ち直ることが出来ました。 その間、同時に色んな雑用に追われ忙しい日々を過ごしていました。

家内の介護には今ではすっかり馴れてはいるものの、最近になって回復の兆しが衰え動作が可なり鈍くなって歩行が出来なくなりました。脳精神科医に依る再検診が施され様々なテストの結果を分析した説明を待っているところです。 丁度一年前までは初期のアルツハイマー病と診断されていましたが正常圧水頭症と診断を見直されてシャントと呼ばれる脳の手術を行った後は毎回一ヶ月半毎に脳脊髄液の圧迫度の調整を徐々に行って来ましたが、現在に至っても一時は良くなったと思われていた症状が期待した程に回復せず、未だにCT Scanの繰り返しを続けて調整を行っています。 如何やら正常圧水頭症と言えどもやはり認知症状も入り混じっている可能性が見受けられています。完全な回復は期待出来ない状態である事はそれなりの覚悟をしての介護を続けていますが、家内がはっきりした意識を持ち続けている間は私にも介護の遣り甲斐がありますので頑張っています。会話を交わしても話の内容が一定せず記憶力も時間の相違で内容が一致しません。然し昔の元気だった頃の記憶は意外としっかりと捕らえて居るのには驚きます。

認知症状でよく見られる尿失禁並びに歩行困難となる症状は当然起こり得る事で自律神経が禍しており、一概にリハビリで回復出来るものでは有りません。幾らリハビリをしても本人に遣る気力が無い限りどうにもならない事なのですが、それでもリハビリは勿論続ける必要が有ります。

私達には子供に恵まれなかったので老後の引退生活は二人で助け合う事しか出来ません。然しお互いに年齢を重ねて行く内に現在の様な生活状態になって来た事も前以て予期して置かねばならない事です。 幸いにしてこのアメリカで二人で頑張って来た甲斐が有って引退生活には恵まれた環境の中で日々を過ごしております。 誰も頼れる身内の者が近くに居ませんので近くに住む友人関係は大事にして居ります。 頼れるのは自分のみなので我が身の健康をしっかり維持して行く様に心掛けています。 人生は長い様で本当に短いものである事をつくづく思う様になったこの頃の私です。 

今日は少し暗い内容の文章になって申し訳ございませんでしたが、このブログのお陰でどれだけ私の気持が癒され、又、力付けられた事かと皆様との交流に感謝いたしております。 これからも引き続き拙い私の独り言の記事ですが、努めて書き続けたいと思っておりますので宜しくお願い申し上げます。

勉強になるお裾分け「知らんかった!」の巻

2009-10-03 08:39:13 | Weblog
日本を離れて60年、{丁度60年前、1949年、の今日10月3日に単独でハワイのホノルル(生まれ故郷)に着いた日です}このアメリカで暮らして来ました。その殆どは日本人の多く住むロスアンゼルス、然し此処で使われている日本語はカリフォルニア独特な日本語で様々な地方の方言が入り混じり、表現の仕方もまちまちで便利の良い日本語化された英語?も取り入れて...。 日本語の難しさをしみじみと身に感じています。
(親しい知人からのお裾分けです...結構勉強になりますよ!)

『言葉』
中一まで、ニュースなどで「誤って転落」と聞くたびに、「ごめんなさい、ごめんなさい…」と謝りながら落ちていったんだなと本気で思ってた。

香辛料のウコンをウンコと認識し、カレーが食べられなくなった時期があった。

うちのじいさんは通販で「濃縮ウランくれ!」とのたまった。

「神のみぞ知る」を「神のみそ汁」と勘違いしていた私。

小学校高学年まで「汚職事件」を「お食事券」だと勘違いしていて、食事が何でそんなに深刻なんだろうと思っていた。
オイラの場合、お食事券を贈って贈賄で捕まったと思ってたからさらにタチが悪かった。

「ステレオタイプ」と聞いて真っ先にオーディオを連想する人は私だけではないはず。

「団塊の世代」をどうしても「男根の世代」と言い間違えてしまう。直らない。
何故だ!? ↑…第1次ベビーブーム世代の事だから「男根」が頑張った結果な訳で、あながち外れてもいない。

「発破をかける」(激をとばす、尻に火をつける。の意)の「発破」を「葉っぱ」だと思い、勝手に日本語の由来は奥が深い、きっと大きな桶いっぱいくらいの葉っぱを頭からかぶった話でもあるんだろぉ。と思っていた。

インピーダンスって、どんなダンスですか?

「一姫二太郎」ということわざは、男女関係なしに、最初の子に「姫」二番目の子に「太郎」と命名するのかと思っていた。
普通は娘が一人、息子が二人と勘違いする。
正しくは子供が二人生まれて、先に娘で二番目に息子という意味(知らんかった。娘一人、弟二人という意味かと)。
「一姫 煮たろう」だとオモテたよ。まんが日本昔話に出てきそうなタイトルだし。で、ストーリーは結構恐い感じ?

アフォーダンスって馬鹿踊りのことでしょ?

「毛細血管」を、「モー細血管」という牛だけにある血管だと思っていた。


『音楽』
高校生になるまで、拍(4/4とか)を約分しても良いと思っていた。

吹奏楽(すいそうがく)とは、アクアラングを装備し巨大な水槽に金管楽器を持ったまま飛び込んで演奏するものだと思ってた。そうじゃないと知ったのは高校で吹奏楽部を見たとき。私は水槽について研究してる部だと思っていました。

テストでバイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスの写真を示し答えを求めたところ…
最初は正解『バイオリン』
次は…『すこし大きなバイオリン』
チェロを『それより大きなバイオリン』
コントラバスを『なまら(北海道弁ですごくの意)でかいバイオリン』
とやらかした奴がいた。

最近まで、1オクターブを1億ターブだと思っていた。

高校の頃まで「葬送行進曲」を「曹操行進曲」だと思っていて古代中国の曲だと思っていた。

中森明菜の「禁句」で「それはちょーっと出来ない相談ねー♪」を「そうだんねん」という関西弁だと信じていた。変わった歌詞だとずっと思っていた。明菜は出身が関西だったかな、とまで考えていた。

吉田拓郎の「旅の宿」の歌詞で「浴衣の君はススキの簪(かんざし)」を「額田王(ぬかたのおおきみ)はススキの簪(かんざし)」だと思っていた

デューク・エイセスの「女ひとり」の冒頭部分「京都 大原 三千院」が「京都 大原 三千里」に聞こえ、「大原ってところがどこだか知らんが、京都から三千里も離れた遠いところなんだなあ」と訳のわからない合点をしていた。

「悲しい色やね」の「大阪ベイ・ブルース」を「大阪ベーブ・ルース」だと思っていて大阪の野球チームにいるそういうあだ名の強打者のことを歌った歌だと思っていた。

キャンディーズの「微笑がえし」の「可笑しく~って~涙が出~そう~」を「お菓子食っ~って~涙が出~そう~」と思っていた。

藤井フミヤの『下北以上・原宿未満』の「下北」を下北半島だと思っていた。

『浪花恋しぐれ』の歌い出し「芸のためなら女房も泣かす」を、「ゲイのためなら…」と勘違いし、「それじゃあ確かに女房も泣くわな」と勝手に納得していた。

毎日夕方になるとテレビから「you get a クインテット♪」と聴こえてきて、クインテットって手に入るものじゃないだろ・・・と思っていた。「ゆうがたクインテット」だと知った時はショックだった。

大学生になるまで「赤い靴」履いてた女の子は「良い爺さん」に連れられて行っちゃったんだと思っていた。良い人に連れられて行ったんならもっと明るい曲にすればよいのにと思っていた。
俺は高校卒業するまで「いい人さん」に連れて行かれたのかと思ってた。
俺は中学卒業するまで「ひいじいさん」に連れて行かれたのかと思ってた。

23歳まで童謡・赤トンボ「追われて見たのは・・」と、トンボに追いかけられる唄だと思っていた。
正「負われて」、誤「追われて」。背負われているのです。

ふるさとの「ウサギ追いしかの山」を「ウサギ美味しいかの山」だと思ってた。

君が代の「さざれいしの いわおとなりて」というフレーズを聞いて、岩が音を立ててぶつかり合うワイルドな光景を思い浮かべていた。
正解「さざれ石(細かい石)の巌(大きな岩)と成りて」

「アルプス壱万弱おヤギの上でアルペン踊りをさぁ踊りましょ♪」絶対にヤギだと思ってました。
正解 コヤリの上で「コヤリ」というのは槍ヶ岳の頂上にある数 m の小山のこと。これを知るまでずっと外国の歌だと思ってました (知らんかった)
「壱万弱」じゃなくて「壱万尺」。

「たなばた」の一番の歌詞↓の意味が未だにイマイチ解りません(T_T)
「ささのはさらさら のきばにゆれる おほしさまきらきら きんぎんすなご」
軒端は縁側のひさしが直角に折れているところで文字通り軒の端、砂子は色紙などに金箔や金粉が漉入れてあるもので、その様子を夜空に見立てているとのことです。

「春の小川」の「咲けよ咲けよとささやきながら」のところを「鮭よ鮭よ」だと信じ、この歌は「カムバック・サーモン(〇〇川に鮭を呼び戻そう)」運動を広めるための歌だと思い込んでいた。

「とおりゃんせ」先日友人の子どもが「こーこはどーこのほそみちだー。ペンギンさまのほそみちだー」と歌ってました。…どんな細道だ。

「雨雨降れ降れ母さんが、蛇の目でお迎えうれしいな♪」の歌は、「ジャノメミシン教室に通うお母さんが雨の日だけは迎えに来てくれるからうれしい」の意味だと思っていた。ジャノメミシン教室なんてあるのかどうかは知らないけど。

母は「浦島太郎」の終盤の歌詞「帰って見れば此は如何に」を「帰って見れば怖い蟹」だと思っていたという。

「もりのくまさん」で「くまさんのいうことにゃ、おじょうさん、お逃げなさい」
は、くまさんがどんなことを言っても耳を貸さずにひたすら逃げろとナレーターのような第三者(声:キートン山田)か、物語とは関係なく歌っている本人が言っているのだと思っていた。

「か~ら~す~、なぜなくの~」の歌で、「やまにななつの子があるからよ」は、山には7歳になる子ガラスがいるのだとおもっていた。そのころは、「だいたい自分と同じくらいか~」と思っていた

ルパン三世のテーマ曲の出だし、「♪ルパンだぞ~ぉ」だと思っていました。
「ルパン、ルパ~ン♪」と思っていた友人はまだ良い方。「ルパンでさ~♪」と思っていた自分は酷い方。
正解は「Lupin the 3rd」(知らんかった!)

巨人の星OPの出だし「思い込んだら」を「重いコンダラ」だと思ってた。
ちょうど飛雄馬がタイヤを引いているシーンなので「あれをコンダラって言うんだ」と納得 。
あの重いローラーを、誰かが冗談で「コンダラー」とか言い出したら、学年では皆そう呼んでましたけど。
既に全国で、かなりの高い率であのローラーは「コンダラ」と呼ばれている。

『おどるポンポコリン』の「タッタタラリラ~♪」が「さっさなりまさ(佐々成政)~♪」に聞こえて頭から離れない。(信長の野望中毒患者より)


『食べ物』

「鯛の尾頭付」を「鯛のお頭付」と勘違いしていた。どうせ食べないのになぜ頭だけついていてうれしいのかと…

中学3年生までピクルスはウリ科の一種の植物だと思っていた。
ちなみに友人はマックで「チーヅバーガーパピルス抜きで!」と注文していた。

きくらげは中一まで黄色のくらげかと思ってた・・・・ゆでると黒くなるのかと。

就職先に出入りしていた仕出し弁当屋のメニューを見て「餃子」を「サメコ」、「焼売」を「ヤキウリ」と読んでいたあいつは立派な大人になったか、最近気になりだした。

「おとなのふりかけ」は18禁だと思ってた。
酒を粒状にしたものが入っているので二十歳以下は食べられないんだと思い込んでいた

小学生の頃まで、パンはパン粉から出来てると思ってた。だってうどんはうどん粉、そばはそば粉から出来るじゃん。
俺はうどん粉はうどんの実というのを挽いたものだと思っていた。

ラー油の語源は「ラーメン屋さんで使うから」だと思っていた。

猪肉を使う「しし鍋」は「獅子鍋」つまりライオンの肉を使っていると思っていた。

「道明寺粉」という言葉を初めて聞いた時、「道明寺湖」という湖の名前だと思った。
初めて文字を見た時、「道成寺」(謡曲や歌舞伎の演目)と勘違いした。

先日まで八宝菜は野菜の名前だと思ってた。

「かやくご飯」のことを「火薬ご飯」とずっと勘違いしていて、ずいぶんと物騒な食べ物があるんだなあと思っていた。

人工甘味料の「アスパルテーム」。ついさっきまで「アステルパーム」だと思ってた(知らんかった)

シャトーブリアンはワインの銘柄だとずっと思ってた。
正解 牛肉の部位

素うどんは、汁が体にいい「お酢」で出来ているのかと思った。
初めて聞いたときは「すー丼」ていうどんぶりものだとおもった。
ラーメン屋でラーメンにお酢を入れて食べる人を初めて見た直後に「すうどん」という言葉を知ったため、ラーメンの時と同じく、普通のうどんにお酢を入れて食べるのを「酢うどん」と呼ぶのだと思ってた。

焼きうどんを「野球丼」という料理だと勝手に思い込んでいた。

給食の「ビーフン」をきっとビーフ味の何かだろうと楽しみに待っていたら、ただの油っぽい麺で少しがっかりした。

俺が子供の頃、スーパーに行くとうちの母親は素で「カップルヌードもっといで、カップルヌード!!」と連呼してた。ほんとは何かは言わずもがな。

5歳くらいの頃、柿の種を植えれば柿が生えてくると思っていた。

「天津甘栗」を「あまつあまぐり」だと信じていた私は千葉県民。

ラムネは駄菓子のラムネを炭酸水で溶かしたものだと思っていた。
ラムネ自体は「レモネード」が語源。 レモネード→ラムネード→ラムネと変化したらしい(知らんかった)。

某漫画に「ブルーマウンテンのウインナーコーヒー」として「青い絵の具・山芋・ウインナーソーセージ」を入れたコーヒーを作るシーンがあった。

「チュロス」と「チョリソー」は同じものだと思っていた。英語で「チュロス」というのをスペイン語で「チョリソー」というんだと思っていた。

「杏仁豆腐」を豆腐の一種と思ってました。当時20歳。

コーヒーはチョコレートと同じようにカカオ豆から取れると思っていた。

フレンチクーラーと思ってた。クルーラー?何それ?

チョコレートのトリュフは世界三大珍味のトリュフをチョコに包んでるから高価なんだと昨日まで思っていた。

小2までモンブランのクリームの渦の部分はスパゲッティで出来ていると思っていた。ずっと食わず嫌いしていた。

高校までプレーンヨーグルトはプルーンが入ってると思ってた。「プレーンオムレツ」はそのヨーグルトを使っているんだと。

マスクメロンの値段が高いのはお百姓さんがメロン一個一個に一生懸命すじを彫っているからだと友人に教えられて25になるまで信じていた。玉が小さい時にすじを彫っておくと甘味が増して美味くなり、表面の模様はその証拠だと・・・その手間を考えれば高くて当り前だと思ってた


『日本地理』

小学生のころ日本の中国地方は外国だと思っていた。

8歳ごろ、九州地方の天気予報で大分(おおいた)県を、「オーブン」と読んでいた。

「しゅとこう」は「首都口」で、鎌倉の切り通しみたいにそこを通らないと首都に入れないからいつも渋滞してるんだと思ってた。

18歳まで「茨城」は「いばらぎ」だと思っていた(茨城県の人ゴメンナサイ...)
一生気付かない奴もいるくらいなので気にしないでください。(by茨城県民)
正解はイバラキ

つい最近まで「Shiodome」を「シオドーム」と読んでいた。正しくは「シオドメ」。
「ShioSite(シオサイト)」とかあるから、ドームもあるのかと…。

「我孫子(あびこ)」のことをついこの間まで「がそんし」って読んでいた.

親に「富士山は山梨県と静岡県にある」と教えられ、富士山は日本に2つあるんだとおもっていた

義理の妹は中学まで「都道府県」を「とどうふ県」という県だと思っていたらしい。

中学2年生の頃まで「熱海」の事を「ねっかい」と読んでいた。

どっかのテレビ番組で旧中山道(きゅうなかせんどう)を「いちにちじゅうやまみち」って言ってた人がいたな。

歌舞伎座と歌舞伎町の区別がつかなくて、歌舞伎座が新宿にあると思っていた。

東京都葛飾区の「柴又」「亀有」は架空の地名だと思っていた。

武蔵の国を宮本武蔵が作った国と思っていた。

三重県四日市市はどうして市が二個あるのかずっと意味不明だった。(「よっかしし」だと思っていた)

八日市場市(現:匝瑳市)を幼いころずっと「妖怪千葉市」だと思っていた。

札幌と函館は快速列車で1時間で着くと思っていた。
正解 札幌-函館間の陸上距離は東京-名古屋間に等しい(知らんかった)。

どうしても「茅場町」を「カバヤ町」と言ってしまう。

JR八高線を23才まで「ハチ公線」と表記する渋谷が始点の路線だと思ってた。
正解 八王子と高崎で八高線です。

『世界地理』

21歳まで「サグラダ・ファミリア」は日本人の桜田さんが作ったと思っていた。

大学生まで「マサチューセッツ工科大学」を「正中摂津工科大学」という名前の摂津にある中堅大学だと思っていた。
ぼくは、「マサツーセッチュ工科大学」だと思っていた。

中学2年のころまでイギリスの「大英博物館」を「ダイエー博物館」だと思っていた。 日本のスーパーは世界進出してるのかと驚いていた。

どうしても「スコットランド」を「スットコランド」と言ってしまう。


『歴史』

小6までクロマニョン人に対して「シロマニョン人」がいると思ってた。
黒魔児四陣だと思ってた。

学徒動員、学徒出陣をずっとGackt動員、Gackt出陣だと思っていた。

徳川吉宗を「米将軍」ではなく「暴れん坊将軍」とテストに書いた奴は俺だけじゃないはずだ!

毛沢東を「けざわひがし」と言う日本人だと思っていた。

「スカーレット・オハラ」は「スカーレット小原」で、「小原庄助」と血縁関係にあると思っていた。

つい最近まで、「風林火山」は、昭和新山とかの「火山」の類かと思っていた。

中臣鎌足を「なかとみのかたまり」って読んでた。

社会の授業中、六波羅探題とノートに書こうとして「六波羅短大」と書いてしまった。それからしばらくして、京都所司代が出てきたら「京都女子大」と書いていた。

時代劇のナレーションで出てきてた「高利貸し」を「氷貸し」だと思っていた。
なんでそれが悪なんだろ??? って悩んでいた小学生時代。

切捨御免を数学用語だとずっと思っていた。

以上です。 面白いお話が有ればお裾分けして下さい。