日本と一日遅れて今日は此方の8月6と云えば忘れもしないあの広島原爆の日から63周年目に入った日です。 日本のテレビニュースでも報道されていましたが、未だに忘れ去る事の出来ない最大の悲劇でした。現在も生存されている被爆者の平均年齢は75歳と言われていますが、 まさに親友のosamuさんや私達はその年齢層に属した運の良い生き残りで元気に過ごさせて頂いています。私の場合、皮肉にも当時憎かったアメリカに現在は籍を置きアメリカ一市民として余生を過ごしています。 7才上の兄は日本軍人として満州に派遣され終戦を迎えると同時にロシア軍の捕虜となって戦病死しました。ハワイ生まれの私達兄弟はアメリカと日本の2重国籍を持って広島で育ちました。私は終戦後、単独でハワイに戻りましたが、今度は南北朝鮮戦争のあおりを受けてアメリカ陸軍に属して朝鮮に派遣されていました。皮肉な運命の悪戯と云うべきでしょうか。広島の原爆は後「ピカドン」と呼ばれ知られる様になりましたが、当時私達は未だ世間知らずの中学1年生のほやほやでした。無数の同級生や上級生達が私達の身代わりになって大きい犠牲を払われました。 私が属していた当時の学徒動員のグループは前日の5日までは広島の中心部に近い場所で疎開して取り壊された家屋の後始末に奉仕させられていましたが、翼日の6日は上級生と交代された事で私達のグループは皆お休みを頂けたお陰で命拾いしたのでした。幸いに私達家族は山口県との県境に近い親戚の家に疎開していましたので原爆の灼熱と爆風は免れました。
広島市は確か2日3晩燃え続け毎晩真っ赤に染まった夜空を眺めていました。大人達の談話では広島には70数年間は草木も生えない土地となったと云う情報を流していました。私は広島市内が燃え尽きた頃、確か3日目と記憶していましたが、鉄道もやっと動き出していたので、単独で学校の安否を確認の為出掛けましたが焼け爛れた無数の無惨な死体と瓦礫の山で道は完全に塞がれ悪臭の為にやむ無く引き返しました。後から思えば、私は完全に中心部に近い所まで足を踏み入れて放射能を浴びた可能性も有ったのではないかと不安な気持ちでしたが、運良く被害は免れたようです。この悲惨な体験は一生記憶から忘れ去る事は無いでしょう。 合掌。
*** WZNT10-Fade-Y ***
黒白の写真は原爆資料館の中で撮ったものです。
タグはnon_nonさんから拝借させて頂いています。
広島市は確か2日3晩燃え続け毎晩真っ赤に染まった夜空を眺めていました。大人達の談話では広島には70数年間は草木も生えない土地となったと云う情報を流していました。私は広島市内が燃え尽きた頃、確か3日目と記憶していましたが、鉄道もやっと動き出していたので、単独で学校の安否を確認の為出掛けましたが焼け爛れた無数の無惨な死体と瓦礫の山で道は完全に塞がれ悪臭の為にやむ無く引き返しました。後から思えば、私は完全に中心部に近い所まで足を踏み入れて放射能を浴びた可能性も有ったのではないかと不安な気持ちでしたが、運良く被害は免れたようです。この悲惨な体験は一生記憶から忘れ去る事は無いでしょう。 合掌。
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黒白の写真は原爆資料館の中で撮ったものです。
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