整理整頓をしておくことが重要である等と認識される。何がどこにありすぐに取り出せる。日頃の準備や習慣にこの側面が組み込まれる。しかし、これへばかりエネルギーが偏り、何をするかの基軸性が弱いと、どこか歪な整理整頓の作業に陥る。主軸的な活動は何なのか、この面に中身が起こり主軸の活動をやって副次的に出現する廃棄物やゴミを片付け、道具を基の配置に戻す等という相関性を生む。
あまり几帳面で掃除が大好きだ等というのも、行き過ぎると、どこか精神面の歪性が映る。物との割合や関係が高まり、人との割合や関係が減少し、人も物と同じような無機質な感覚を抱き、粗雑な感性と短調な機械性を進め、精神と身体の相関の適正を欠く等という認識が起こる。利便性、効率性、衛生面等々の生物物理面の感覚の変容する人間への認識が起こり、良い面と負の面を浮かべ適正を算定し、変わりづらい健全な主体性を求めるエネルギーが起こる。
町や都市の設計も、ハードの中味や配置、相関の良く考えが及ぶ構想に有るか、あまりに供給理論が過ぎ画一的活動の想定によるハードの設置などが起こると寧ろ生活の不自由さが進み、杓子定規の人工的理論が高まる。例えば、駅の駐輪についても少しでも決まった場所に置かないと直ちに撤去する等という現象が生まれる。十分にスペースがあり、少しの時間止めるくらいなら問題は無かろう等という場合でも、すぐに撤去などという操作が強められる。
身体的な面の活動が弱まるほどに、ちょっとしたイレギュラーへの対応力が減り、過敏な精神性を強め、ハードの几帳面な管理を求める相関性が映る。身体的な活動面の弱まりと過敏な精神性を生む事への不健全性が映る。道具に偏った依存性と精神面の歪性という人間像の特徴が起こる。道具への過剰な依存による生存性の進行から、物質力に過度な依存を見せ、外界を支配する操作性が進み、精神面の歪性と身体的な面の活用が強まる事への適正化の観点が生まれる。セクハラや人権等という権利の強調も、これらの相関性から生み出される。あまりに過剰な権利の強調か、逆に生物物理的過敏や依存による精神面の歪性の進行に対する適当な対策としての労働者保護や人権策に及ぶか。「過敏と鈍感、緊張と緩和、悲観と楽観」という両極を浮かべ、適正を操作する法則性が定立される。
これらの思考の枠組みとして、普通という基準と正負の側面という構造をもって適度さを導出する制御が図られる。基準と過不足の構造が萎むと両極へ外れる傾向を産み、極端な反応や施策が強まり歪な精神性に外れた人間性が現れる。頭と体と精神という根本的な観点から人間の様子を伺う視座を備え、精神面と身体面の健全性を求める創造が起こる。歪な精神性による物質的依存の創造性や過度な資本主義の潮流について根源的な側面からの良性化を問い、哲学や文化という個性が現れ、二次三次の現象への評価感覚に回り適正を見出す循環を遂げる。習慣や規則性として思考の枠組みが作られる。良好な感性や精神性を動源にして適正を作る方法論が進み、思考の枠組み等として概念が整えられ概念を用い現象を作る事に回る。
とりわけ力が大きく影響力を産む対象について、短変数の物質策に陥らぬ多様な観点と多変数の算式をもって、効用と影響を勘案し最良の生を作る態度が望まれる。単細胞の物理化に外れるような対象では、力と責務の不均衡性を広げ、歪なエネルギーを招き長期利益を喪失させる。システムと人のミスマッチと解される。本書の「日本文化原論 真なる調和への道」におきましては、比較的長期周期で見る人間の良好性を問い、根本的な面からの観点をもって適正像の導出を図る事に及びます。
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