国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

東海道新幹線開業までの歩み

2018-05-18 09:34:43 | 国鉄思いで夜話

本日は、新幹線開業までの歩みと言うことで、古い鉄道ピクトリアルの資料を参考にしながらお話をさせていただこうと思います。
東海道新幹線【当時の名称では新幹線】は東海道本線の線増として計画されたわけですが、古くは昭和13年の弾丸列車計画まで遡ることが出来ます。
そこで、当時の年表などを参照してみますと、

昭和13年12月2日に、鉄道省企画委員会規程第6条により、鉄道省企画委員会に鉄道幹線調査分会を設置したと記録があります。
この、幹線調査分会とは、「鉄道主要幹線の輸送力拡充並に内地・大陸間の交通系路に関する調査研究を行なう」ということで、当時は内地であった韓国との連絡についての交通機関の計画等が主な目的でした。
翌年、昭和14年7月6日には、鉄道幹線調査委員会が設置され、「幹線拡充問題及びこれに関連する事項を総合的に調査する機関が誕生したそうです。
昭和15年3月25日には、帝国議会で、東京~下関間幹線増設工事予算成立(第75回帝国議議会)し、翌年昭和16年8月5日には、新丹那ずい道が着工されることになり、11月18日には、東京~下関間、新幹線建設基準が制定されることとなりました。
しかし、12月8日に始まった大東亜戦争(第2次世界大戦)により、弾丸列車計画も、昭和18年4月以降は戦局の悪化により中止とせざるを得なくなりました。

ここまでが戦前の話、その後、弾丸列車計画自体は、そのまま凍結されていました。
このblogを読んでいただいている方の中には、昭和32年5月30日に、国鉄鉄道技術研究所が開催した創立50周年記念講演会、「超特急列車、東京~大阪間3時間への可能性」と言う講演が、新幹線建設の機運になったと思われる方もおられるかもしれませんが、その前年昭和31年4月11日に第11回常務理事会開催され、東海道線の将来の輸送量や、輸送力増強方式等について早急に検討する必要があることが確認され、5月10日には、本社に島秀雄技師長を委員長とする東海道線増強調査会が設置され、将来の輸送力増強について検討されることとなりました。


もっとも、この時期には新幹線の計画は無く、腹付け線増方式か、新規に狭軌で路線を引くと言ったことが主に研究されていたようです。
ですので、本社としても、国鉄鉄道技術研究所の発表を冷ややかな目で見ていたメンバーも多かったと言われています。
最終的には、十河信二総裁が、新幹線による可能性を見抜いて、島技師長に働きかけて実現することになるのですが、その前段としての委員会は既に前年の4月に誕生していました。
昭和32年7月29日には、本社に幹線調査室が設置され、東海道線建設に向け用地の確保並びに保全の調査などが開始されたそうです。
同年8月30日には、政府部内にも運輸省内に日本国有鉄道幹線調査会が設置されることになりました。
このとき検討されたのは、腹付け線増による全線複々線化、別線路による線増などが検討されたようです。
昭和33年2月25日には、閣議決定で、内閣に交通関係閣僚協議会が設置され、大蔵、農林、通産、運輪、建設の各大臣。北海道開発庁、経済企画庁、内閣官房の各長官がメンバーとして参加しています。
であり、国鉄が運輸省の外局として機能していたことが窺えます。
昭和33年7月9日には、日本国有鉄道幹線調査会は、最終答申を閣議へ報告、交通関係閣僚協議会に諮られることとなり、同年12月19日承認を得ることになります。
なお、これに先立ち8月21日には、本社幹線調査事務所は航空写真測量を開始しています。
正式に建設が決定したことから、昭和34年4月18日には、幹線調査室を廃止して、幹線局を設置、幹線調査事務所を廃止して。東京幹線工事局を設置、大阪、名古屋に出張所を設置しています。
昭和34年4月20日には、いよいよ東海道新幹線の起工式が、新丹那隧道東口で行われ、かって弾丸列車構想で最初に着手した区間から工事が再び始められることになりました。
なお、新幹線の建設に対して、実際の建設費では承認が通らないと事前にわかっていたので、十河総裁が予定額の半分程度の予算に抑えて承認させた話は聞かれた方も多いと思います。
結果的に、このことが後年国会で追及されて新幹線開業前に十河氏は退任を余儀なくされます。
昭和34年10月16日には、世界銀行極東部長、ローゼン氏が来日、大蔵大臣から一億ドルの鉄道借款を正式に申し入れ【360億円】がなされています。
ちなみに、このときの内閣は岸信介氏、大蔵大臣は、弟の佐藤栄作氏です。
更に調査団は、昭和35年5月5日に来日、約一ヶ月間にわたり新幹線に関する経済上・技術上の問題点などを調査しています。
最終的に世界銀行からの融資に成功し、昭和36年5月2日には世界銀行から8,000万ドルの調達に成功、調印式が行われることになりました。
据え置き3年半を含めて20年間、年利は5.75%となっていました。

世界銀行からの借款が成功したことで建設のに関する方向は更に早まり、昭和36年8月4日には新幹線建設基準の主要事項が決定され、9月27日には、試作車両の計画も決定しています。
10月18日には、東京~大阪間、全区間のルートも決定しています。

鴨宮試験線の様子、昭和38年1月号 鉄道ファン19号から引用
昭和37年4月20日には、鴨宮付近の路線をモデル線区として早期に完成させると共にモデル線管理局を設置しています。
2ヶ月後の6月20日には試作電車1,000形6両の組み立て整備が完了、2+4の編成でそれぞれA編成・B編成と呼ばれました。
A編成は新幹線開業後は救援車としてB編成は電気試験車【現在のドクターイエローの原型】に改造されましたが、昭和50年8月に浜松工場で解体処理されています。
少し話が、脱線しましたので元に戻したいと思います。

昭和38年3月30日には256km/hの最高速度を記録、4月11日にはエカフェ主催の新幹線スタディウィークとして、アジア各国に新幹線を大いに宣伝したとされています。
更に、4月24日には、阪急京都線下り線が(山崎付近)新幹線路盤へ切換、運転されることになりました。
これは、新幹線に併走する阪急線を併せて高架化することとなり仮線代わりに新幹線の線路を借用するようにしたもので、
阪急にして見れば仮線を用意する必要がなく、新幹線にしても軌道を踏み固めて盛られるメリットがありました。
昭和38年8月には、用地買収費及び補償費の増、賃金の値上り、設計協議、地質不良その他による設計変更並びにモデル線区における試験の結果の計画変更等で、さらに874億 円の費用が増加するとして、総予算を3,800億円にすることを理事会で決定 即日総裁より運輸大臣に説明と相成りました。
この責任を負う形?で、新幹線総局は廃止され、新幹線局に格下げされることになりました。
昭和39年4月28日には、東海道新幹線の。鳥飼~米原間でも試運転が始まり、3ヶ月後の7月11日に全線515kmが開通、7月25日から東京~大阪間で全線試運転が始まり、車掌の養成も始まりました。
新幹線の組織は在来線とは別ものとされ、在来線では専務車掌A【その後車掌長に変更】の上位職として車掌長が開業当初から役職として設けられたほか、制服も独自のデザインとされ、在来線とは一線を画する扱いがなされました。
なお、新幹線総局が管理する現業員は、運転士と車掌、浜松工場の職員のみであり、新幹線駅に関する駅員は在来線各駅の管轄とされていたそうです。
昭和39年8月18日は、運賃・料金及びダイヤの構想が決定され、超特急料金・特急料金等が決定されました。運賃については在来線の線増ということで在来線と同じになっています。

以上駆け足で、東海道新幹線開業までの道のりを見てきましたが、改めてこの辺の資料もきちんと整理してアップしたいと思います。

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日本国有鉄道研究家 加藤好啓

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