昭和27年~昭和30年頃までの時刻表を見ますと、特殊列車という名称の列車を時刻表で見ることが出来ます。
古い時刻表をご覧いただきましょう
以下の画像は交通案内社という会社が発行していたポケット時刻表の昭和28年8月号の時刻表をスキャンしたものです。
今から69年前の本ですのでかなり劣化が激しくて・・・ちょっと扱いには慎重にならざるを得ません。
まぁ、それはさておき。
この時刻表をご覧いただきますと、佐世保・急行と書かれています。
京都からの時刻を記載しているのですが、東京を前日の20:15に出発、大阪には7:23 終着佐世保には23:59ですので、28時間近くかかる列車でした。
さて、ここで注目していただきたいのが、中段に書かれた、特殊列車1・2等と言う文字です。
当時は3等級制でしたので、1等は現在で言えばグランクラス。2等がグリーン車と言ったところでしょうか。
当時も十分な輸送力があったとは思えない時代ですが、それでも1・2等だけの急行列車というのも中々です。
また、列車番号1000番台というのも何か曰くがありそうです。
特殊列車ってなに?
特殊列車というのは、昭和40年代では、主として貨物主体の旅客混合列車などに使われる名称なのですが、ここで出てくる特殊列車は、占領時代に運転された進駐軍専用列車のなれの果てであり、講和条約後も運転された列車の名称です。
当時の時刻表を参照しますと、「空席がある場合は日本人も乗車可」という条件付きで乗車が可能という代物でしたが、実際にはさほどの利用はなかったようです。
さて、ここで列車の話をしてもよいのですが、詳細は
弊ブログ 昭和30年代の時刻表から 特殊列車と呼ばれた列車たち
に詳しく述べていますので割愛させていただきます。
今回は、国鉄と進駐軍の間で交わされた、講和条約以後の進駐軍専用列車の扱いに関するお話をさせていただこうと思います。
講和条約発効
サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)は、昭和26年9月8日に締結され、昭和27年4月28日に発効し、日本は国際的には独立を取り戻すこととなりますが、その後も日本にはソ連の脅威を感じたアメリカは、日本を太平洋への橋頭堡とすべく、引き続き米軍が駐留することを認める安全保障条約[旧安全保障条約]も同時に締結することとなりました。
講和に関しては、全面講和か部分講和かで議論がわかれ、世論を2分することとなりましたが、吉田全権により講和条約は部分講和(ソ連・中国とは講和しない)という形で決着、日本は国際上は独立を図ることとなり、この時点での全面講和か部分講和かで世論は割れることとなりました。
この辺は鉄道の話題とは異なるので、軽く流すとしますが、当初政府は昭和27年4月1日から講和条約は発効するものと思われていましたが、実際の講和は条約発効は4月28日と、約1か月ほど遅れる結果となりました。
国鉄でも4月1日からの講和条約発効をうけての調整が行われることとなり、それまでの占領軍輸送と言う位置づけから駐留軍輸送へとその形態を変更する事が協議されることとなりました。
占領軍輸送から駐留軍輸送へ
その主なものは、占領軍輸送(借り上げ輸送)⇒駐留軍輸送(運送約款に基づく有償輸送)が一番大きな変更点でした。
それまでの占領軍列車と言えば、最上位に位置する列車でした。
占領軍は、国鉄の運送約款ではなく、一日いくら、1㎞あたりいくらという賃率を組み合わせたもので、進駐軍の命令は無制限に受入こととされいたわけですから、かなり無茶苦茶と言えそうです。
連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車
特急列車運転開始に際して国鉄当局側の交渉で、
特急列車>連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車
の序列が認められることになるわけですが。
参考:弊blog 特急つばめガールは、GHQの置き土産? - 国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓
にも書かれていますが、今度はこの序列が以下のように変更されるわけです。
特急列車>急行列車・(駐留軍列車)>普通列車>貨物列車・(駐留軍貨物列車)
ということで、進駐軍専用列車も一般の急行列車と同じ扱いとなったのでした、他には専用列車時代は軍関係者だけでなく、軍人家族や商用等で来日している外国人も専用列車に無償で乗車できたのですが、これもなくなり基本的には、有償となることになります。(実際には、輸送原価のみが支払われるもので、1キロ1車幾らと云う料金と1日いくらという料金との併算で一般の運輸規則と全く別の方法で計算したものであったそうで、占領軍の輸送は無制限に受け入れることとされていました。
当時の資料を参照しますといくつか、興味深い当時の記事がありますので、そこから随時抜粋してみたいと思います。
占領軍専用列車に国鉄が関与することになるのは、昭和27年3月24日から
資料を参照しますと、国鉄部内紙の「国有鉄道」昭和27年5月号に詳細に書かれているのですが、講和条約の行われた昭和26年9月10日に、国鉄からGHQ総司令部及び輸送司令部に対して、出来るだけ速やかに差別的扱いを止めていただきたいこと、更に講和条約発効後は、輸送に関しては国鉄の運送約款に基づく一般的な運輸方法であることを求めたとしています。
当時のGHQによる国民に対する対応はかなり厳しいものであったことが以下の記述からも読み取れます。
当該部分を、国有鉄道 昭和27年5月号から引用します。
国民の与望に答えて出来るだけ外観上の差別取扱を早い期間に解消して円滑に発効をむかえたい旨、又発効後における取扱は、原則として一般運輸の方法に依りたい旨を詳細に具して要請した。これに対して先方でも出来るだけ英の趣旨に協力しようと云うととで標識の撤去だの、駅にある軍用の柵を除くことだのロープをはずす事等を実施し、次いで順を追って電車の専用車の解除返還、RTOの縮小などを行って来た。
今年の二月ラスク大使が特使として来日して行政協定の交渉を始めるに及んで、鉄道輸送についても講和発効と同時に従来の取扱を改めてこれから述べる様な形にしようと云う話になってず』料金だの取扱だのについて色々折衝を始め、三月中旬頃にほぼ原則的な点で意見の一致を見るに至った。
とありますように、講和条約の締結以降順次、発効に向けて解消されていったことが窺えます。
さらに、本題の特殊列車に関しては同じく国鉄部内紙、国鉄線に、もう少し詳しく書かれているようです。
元進駐軍専用列車、車掌も国鉄職員が乗務することに
この記事を参照しますと、それまでの進駐軍専用列車では、原則的に国鉄職員がこの列車に乗務するのは運転車掌[後方の確認業務]のみで、車内はMRSのコンダクターと呼ばれる人が乗務していたようですが、コンダクターに代えて客車専務車掌・荷扱専務車掌が乗務することとなるとして、その扱いをどうするのかということが記述されていますが。
最初の2週間ほどは引き継ぎを兼ねて乗務するが、基本的には国鉄の車掌に列車の常務に関する権限と責任がある子が明記された他、この列車の特殊性に鑑み、車掌の選定にあたっては特に本庁で以下の条件を元に決定したと書かれています。
- 英語会話能力よりも勤務成績優秀な列車乗務員であること
理由
- 国有鉄道のコンダクターとして、旅客の制度及び取扱面、輸送の面、更に車内秩序の適切な保持を行いえる能力といったような面が 、一般の国内列車以上に必要になってくること
- 英会話は、車掌と外人旅客との間に必要な範囲は極めて局限されたものであり、僅かな会話能力でも、問題を円滑に処理し得るであろうと考えること
この二点から判断したとされています。
最後に、当時の特殊列車の車掌の受持は以下の通りです。
- 1001・1002列車 東京~大阪 大阪車掌区
- 大阪~佐世保 門司車掌区
- 1005・1006列車 東京~大阪 東京車掌区
- 大阪~佐世保 下関車掌区
- 1201・1202列車 横浜~青森 上野車掌区
- 函館~札幌 札幌車掌区
となっていたそうです。
こうした経緯を経て誕生した特殊列車ですが、昭和29年の改正で1001・1002列車は西海、1005・1006列車は早鞆、1201・1202列車は十和田(上野~青森)・洞爺(函館~札幌)という愛称が付けられますが、昭和31年の改正ではこれらの列車は一般の列車扱いとなり列車番号も変更される事となりました。
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