久々に更新させていただこうと思います、連日結構忙しくさせていただいております、今日は夜勤ですので少しゆっくりできていますので、少しだけ寝台車のお話をさせていただこうと思います。
寝台車と言うと今や風前の灯火ですが、今回は昭和30年代・40年代の寝台車のお話をさせていただこうと思います。
今回取り上げるのは、戦後最初に作られた寝台車マイネ40と20系開放式寝台車の基礎を作ったマイネ41のお話です。
最初に取り上げるのは、マイネ40形、こちらからお話をさせていただきましょう。
現在は、JR東海のリニア館に保存されていますが、歴史的には非常に貴重な車両で、マイネ40は、2人個室+開放式寝台車の構成となっており、後のナロネ22の原型になります。
この車両、製造までには、かなり複雑な事情があったようで、回想の旅客車に詳細が書かれていますが、昭和21年、マイネ40は、戦後米軍が接収した皇族用客車スイロネフ38と同じような形式の車両を40両製造しろと第三鉄道輸送司令部(MRS)からの指令で製造が開始されたものですが、その後命令は二転三転して、製造は伸び伸びとなりました。辛うじて当初の計画通りの車両が誕生しましたが、今度はMRSがそれを接収すると言い出しますが、肝心の車両は鉄道車輌製造会社にあるからという理由で、MRSで直接購入するか、国鉄に購入予算をつけることを要求したところ、撤回通告が再びなされ、最終的には昭和23年度に購入予算が認められることになりました。かつ、この車両は米軍専用ではなく、国鉄が運用できる1等寝台車としてのお墨付きを得られたので、こととなり、外国人観光輸送に使える車両となりました。
最終的には、21両が日本車輌と川崎車両から導入されることになりました。
客車として初めて蛍光灯を採用【直流蛍光灯】し、夏場には冷房装置を取り付けた【オフシーズンは撤去】車両でした、オフシーズンに撤去するのは、蒸気機関車牽引時代、少しでも軽くしたいという思惑からでした。
特に、カーテンは、当初の発注先である、MRSの意向で、絹製の西陣織を使うなど、その内装はかなり凝ったものであり1等寝台車としての風格は十分に備わっていたと言えましょう。
マイネ40区分室
昭和23年7月に2両が外国人観光用として使用【この時点では空調装置の設置は無し)、内装は、桜の木を使った落ち着いた内装でしたが、アメリカ人には人気が無かったそうです。
画像 Wikipedia
次に同じく、マイネ41形のお話をさせていただきましょう。
マイネ40は、最終的にはRTOも、気に入ったそうです、運用開始にあたり、リネンを保管する場所が無い問題が判明したため、開放室隣の区分室の一角を潰して、給仕室に改造したそうです、その後、(GHQ)総司令武民間運輸局(CTS)が、新たにオール開放式【プルマン寝台】の車両を12両製造することが命令されました。
国鉄の考え方としては区分室寝台=1等という考え方だったのですが、CTSとしては、開放式寝台で有るべきと言う主張が行われ、結果的にはそれ以外にも内装を淡い鶯色の塗りつぶしとなったそうです(優雅さよりも軽快感が強調される結果となりましたが、結果的には好評であったそうです)
マイネ41の車内、寝台仕切りが収納されているため、寝台収納時の姿は非常にスッキリしている
また、マイネ40で採用された蛍光灯は時期早尚だったため、再び白熱灯に戻ってしまいましたが、新形グローブを採用するなど、車両としてはユニークなものとなりました。
あと、寝台の仕切りですが、寝台の背摺りの間に仕切り板を忍ばせておきふたを開けるとびっくり箱よろしく、中から仕切り板が跳ね上がる方式が試作されました。(マイネ40では、給仕室から運んで取り付けていた)
そのため、車内が非常にすっきりした見付けとなっていましたが、その後の20系等では袖を引き出す方式に、14系以降では機械昇降式になったので仕切り板が最初から固定になるなどだんだんと見通しが悪くなっていきました。
ナロネ21開放室の車内、
ここまで書いて、マイネなんて言う寝台車は本当にあったのかと思われる方も居るかもしれませんが、昭和30年に1等寝台車は一足先に2等に格下げされているためであり、仮に1等寝台車が昭和35年の等級制改定まで存在していたら、20系「あさかぜ」のナロネ20はナイネ20、ナロネ21はナイネ21となっていたかもしれませんね。
ちなみに、戦前からあった2等寝台車(マロネ29)は非冷房のままであり、旧1等寝台車個室をA寝台、開放式寝台をB寝台、従来の2等寝台をC寝台として区別したそうですね。
寝台列車が早々と1等寝台を廃止してしまったのかというと、当時の輸送事情がありました。
当時の運賃は、1等運賃は3等の3倍と言うべらぼうなもので、別途寝台料金も定められていたのですが、非常に高額になってしまい飛行機に利用者を奪われる結果に、その反面2等寝台車は需要が旺盛だったそうで、ガラガラの1等寝台と常にキャンセル待ちの2等寝台と言う構図になったいたそうです。
そこで、空気を輸送するのなら格下げすることで、2等寝台利用者のサービス向上と増収を図ることを目的に一足先に1等寝台車を廃止したのだそうです。
陸上輸送のシェアの90%以上を占めていた当時でも長距離を中心に飛行機の台頭は国鉄にとっては脅威であったということです。
なお、当時の航空運賃は政策的に非常に高く設定されていたそうです。【手元に資料がないので例示できませんが・・・。(^-^;)
寝台車の思い出話、多少でも参考になれば幸いです。
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2 コメント
コメント日が
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- Unknown (Tt9)
- 2020-08-29 19:47:28
- 戦後の1等料金は時期にもよりますが運賃は3等の4倍、料金は3倍だったと記憶していますが。
- 返信する
- Unknown (zzz)
- 2022-10-23 23:25:21
- マイネって、津軽弁の『だめ』って意味だったから、頭に残ります。(笑)
- 返信する
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