国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

ある男の回想 初めての引越し

2010-05-05 23:53:07 | 国鉄思いで夜話

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みなさん、こんばんは。
今日は暑い日でしたね、半袖がちょうどいい季節になってきました。

つい最近まで、オーバーがと言っていたのに、今度は半袖・・・春はどこ?そんな状態にならないように願いたいものですが。

今日は、夏用にブレザーを調達してきました。
夏用のスーツも何着かはあるのですが、冬用と比べると圧倒的に少なく、少しくたびれているのもあったのと、カジュアルにも使えるブレザーが何着か欲しかったのでちょっと探しに行ってきました。

予算との絡みもあっていいと思えば高いし、妥協すればそれなりだし・・・難しいものです。
いっそ、国鉄時代の車掌の白制服でも来てやろうと思ったり・・・いや、やはりそれだけはやめておこうと思う今日この頃。

ということで、ある男の回想記再びはじめたいと思います。

昨日は、男の子は時に銭湯ではなく国鉄の風呂を借りたというお話でしたよね。
男の子が、駅近くに住んでいたのは4歳になるまでで、時々連れていったもらったと思うのですがさほども記憶に残っていません。
ただ、子供心に大きなお風呂と思っていたのですけど、小学生になって改めて廃止になった風呂を覗いてみたら意外と小さくてびっくりしたことを覚えています。

それでも、家の風呂とは比べ物にならない大きな湯船ともうもうと沸き立つ湯気だけは今でも覚えているものです。

国鉄当時は、蒸気機関車の乗務などでは体が石炭で汚れるため、勤務時間中に入浴することは認められており、勤務時間の一環となっていたのですが、国鉄末期に入浴を勤務時間ではなく勤務時間外にすることとされて、数多くの職員が処分されたりしました。

でも、男の子が風呂を借りていた頃はそんなこととは無縁の時代、いつも湧いてる風呂はある意味貧しい国鉄一家の家計を助けるのに十分に機能するものでした。

そんな風呂ですが、男の子父親の回想によると、父親と風呂に入っていたさいに、手が滑って男の子は浴槽の中で羊水ならぬ、風呂水の中に浸かってしまったそうです。
さすがに、すぐ救い出されて事なきを得たそうですが、全く流石に記憶はないですね。
ただ、それが原因か否かは知りませんが、水恐怖症になってしまったそうです。

また、家計を助けるという点で忘れてはならないものとして、「物資部」という組織がありました。
簡単に言えば、国鉄一家専用のスーパーマーケットととでもいうもので、生鮮食料品は扱っていませんがそれ以外の雑貨などは殆ど揃いましたし、市価よりも何割か安かったりしたのでよく母親に連れられて、家と反対側にある駅近くの物資部まで買い物についていったものです。さらに、物資部指定の商店では、ある程度割引した金額で購入できるなどの制度がありました。

こうして、国鉄の場合は給料が決して高いとは言えませんでしたがこういった福利厚生制度は充実していたようです。
もちろん、鉄道診療所、鉄道病院といった医療施設が充実していたことはいうまでもありません。

男の子がまだ2歳か3歳の頃、買い物は近くの市場そして、少し足を伸ばさなしますが、物資部での買い物が一般的でした。

近くにある市場は、踏切を越えていかなくてはならず、また市場自体は線路沿いにあったので、男の子にとっては汽車がいつも見えるご機嫌な環境だったので買い物にいくのは機関車を見ることもできる一石二丁の楽しみでもあったのです。

でも、不思議なことに市場に行った頃に汽車を見た記憶がないのはなんでなんでしょう?

それよりも、いつも感じていたのは空がいつもどんよりと曇ったように空が暗かったことの方が記憶としてあります。
多少誇張された記憶なのかもしれませんが、ばい煙でいつも少し曇り気味だったような気がしてなりません。

そんなバツグンの環境で?育った男の子ですが、父親が家の近くの保線区【建築課】から管理局【天王寺鉄道管理局】に転勤することになったのでそれに伴い家を転居することになるのでした。

新幹線が開業した年には、新しい住所に住んでいたので転居したのは昭和三八年頃だと思います。
そこは、今まで聞こえた汽車の音は遠くに聞こえるだけで、男の子はとても寂しい思いをするのでした、そして、もう一つ嫌な音が毎日毎日家の2階から聞こえてくるのでした。

というのは、男の子の父親が2階の部屋を雀荘に改装し、自身も麻雀に明け暮れていたのです。1階には、母親が引き続き日銭を稼ぐために瀬戸物を中心に雑貨を扱う店を始め、男の子は前の家よりもさらに狭いところに押し込められてしまうのでした。

そして、夜な夜な聞こえる麻雀牌の音、そして時々、負けたからといって金を取りに来る父親と生活費を守ろうと攻防する母親の喧嘩の声を毎日のように聞かされて子供心になんとか仲良くなって欲しいといつも小さな心を痛めたのでした。

そんなことがトラウマになっているのかどうかわかりませんが、麻雀を始めギャンブルが嫌いになってしまいました。

鳴り物入りで始めたマージャン屋も男の子が小学校に上がる昭和42年頃には廃業していましたから2年か3年ほどだったのではないでしょうか。

ただ、今も不思議なのは、管理局【天王寺まで】通っていて雀荘をできるほど仕事が暇だったのかどうか不思議でなりません、もちろん誰かにさせていたのかもしれませんが、子供の頃の嫌な記憶は大人になっても消えることはなさそうです。

父親が天鉄局に勤務していた頃一度だけ職場に連れて行ってもらったことがありました。
ちょうど、天鉄局が建て替え中であったためプレハブ建ての仮庁舎でしたが、駅とは又違う雰囲気の場所で仕事をしている姿を見て誇らしいようなそれでいて、自分も大きくなったらこういったところで仕事をしたいと心ひそかに思ったものでした。

「天鉄だより」が発行されていたのもその頃で、石井総裁が表紙の写真だったり、伊勢線開通の写真だったり、モノクロ印刷の質素なものでしたが、家に持ち帰ってくる天鉄便りを一番良く見ていたのは、その男の子だったのです。

中身を見て何がわかるというのではないのに。

そんな不思議な少年でしたが、それはきっと近くに汽車が見れない、聞こえないことに対する反動であったのかもしれません。

まとまりがなくなってきたので、この辺で失礼します。

今宵は、美空ひばり 柔 をお聞きください。


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