国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

山陽新幹線と寝台夜行列車

2017-02-12 20:45:11 | 国鉄思いで夜話
東海道新幹線が開業したのは昭和39年10月、世界の四大馬鹿(ピラミッド・戦艦大和・万里の長城・新幹線)と言われたものの、恐る恐る蓋を開けてみれば大盛況、世界銀行から借りた借款8000万ドル(当時は三六〇円固定レートですので、)も約2880億円現在の物価で考えればさらに10倍程度と考えると2兆8000億円の融資を受けたことになっており、1981年には完済しているとのことですが、新幹線は、鉄道が斜陽化した産業であると言われていた常識を覆したと言えます。
さて、今回は東海道新幹線のお話ではなく、その後計画された山陽新幹線のお話です。
東海道線の別線として計画された東海道新幹線ですがその有用性から山陽区間に延伸して博多までを結び計画が出てくるわけで、昭和41年の当時の部内記事などを参照してみますと、将来は新大阪ら博多まで延長する計画が既になされています。
説明を判りやすくするため、
交通技術 交通技術昭和41年10月号から引用させていただきました。

更に当時の最高速度200kmで運転すると東京~博多間は7時間程度となり昼行よりも夜行志向がたかくなるであろうということで、新幹線版夜行列車のダイヤも検討されました。
当時の計画では、新幹線版寝台列車は21:00~23:00頃までに東京を出発して博多に翌朝の7時から9時までに到着できるように、約10時間運転で計画が練られたそうです。




当時の計画では12両編成、かつ10分間隔で12本が運転できるとされていました。
なお、当時の計画を見ていますと、山陽新幹線の4区間程で下り列車は2時間以上停車する形となります。


この計画段階では、一部区間を3線とする計画で、交互に日によって閉塞区間を変えるなどの計画も検討されたようですがそうなると、日毎にダイヤを変更しなくてはならず大変手間もかかるといことで採用はされなかったようです。

そしてその駅間は単線区間となることから線路保守の横を200kmで通過するわけにはいかないので110km/hで通過するようにダイヤが検討されたようです。



交通技術 交通技術昭和41年10月号から引用
当時は作る気が満々だったようで、実際に昭和48年には961形試験電車

交通技術 交通技術昭和41年10月号から引用

6両編成の中に、食堂車や寝台車(大きな車両限界を利用して2段式寝台で通路を隔てて設ける方式で1区画6人を確保するB寝台や、
後年のロイヤルに近い形の寝台車であり他にも、ナロネ20のルーメットタイプ個室寝台や食堂車が試作されました。

交通技術 交通技術昭和41年10月号から引用

食堂車は、新幹線博多開業時に36形食堂車として日の目を見ることとなりましたが、画像Wikipedia
新幹線騒音訴訟などに見られるように、住民からの反対運動などもあり計画はされていたものの新幹線の夜行運転は日の目見ることはありませんでした。

歴史にIFはありませんが、仮に新幹線による夜行運転が実現していたら、現在の夜行列車地図も大きく変わっていたのではないでしょうか。
九州ブルトレは、JR東海とJR西日本の共作で21:30頃から23:30頃まで5分おきに出発するなんて構図が出来ていたかもしれません。
また、新大阪からも同様に最終東海道新幹線を受けて,23:40~24:10頃までの間に鹿児島中央行きの夜行新幹線が運転していたかもしれません。

仮に、当時の住民運動で新幹線の反対をしていなければと言う仮定ですが・・・。

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