「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!
「日の丸」・「君が代」反対!!
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。
越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年渡満、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
●731部隊
『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より
Ⅲ ああ美しや
※途中、一部を割愛させていただきます。
石井隊長は軍神か
石井隊長はおそらく、細菌学(細菌戦)について、人のまねの出来ないことを俺はやっているという、絶対の自信があったのだと思う。731部隊の濾水器も、石井隊長自ら考案したもので、5センチほどの厚みがあり40センチから50センチほどの長さの陶焼の円筒を、16本ほどつなげたもので、どんな運河やドブの水でも真水にすることができ、隊長自身泥水や小便を濾過して、みんなの前で飲んで見せたこともあった。
しかし、そういう自信と同時に、細菌のおそろしさを最も知っていたのは、石井隊長自身である。隊長は、食事のたびに脱脂綿で手、指をたえず神経質に消毒していた。特に健康には気を配り、朝起きると必ず、1回目の小便をビーカーにとって、疲労状況を調べていた。目を凝らし、ビーカーを明かりにかざしている異様な光景は、今も私の眼に残っている。個人的にくり返し教えてくれた隊長の健康上の忠言は「人間の体というものは、栄養と労働と睡眠の3原則の調和で成り立っている。これをやらないとだめ、医者にかかるだけでもだめだ。この3つは自分で調節するしかない」というものであった。
そうした自信と、神経質といっていいほどの配慮に支えられて、権力欲もなかなかのものであった。軍医は中将止まりで、大将に昇任できないことがおもしろくなかったようである。「軍医がなぜ大将になっちゃ悪い。石井が大将になる。石井が大将を作ってみせる」といったことを聞いた。(明日に続く)
※石井は軍のいろいろなところで濾水器のすばらしさを語った。細菌戦に対する情熱を熱く語り、天皇・皇族・軍を動かし、莫大な予算をつけてもらった。もちろん東京の陸軍軍医学校と連携をとり、また、各帝大の医学部とも連絡をとりながら、細菌戦の研究をすすめた。ハルピンの1施設で細菌戦の研究が進められたのではなく、中国のその他の施設・東南アジアの施設・そして日本の研究機関と大日本帝国全体で取り組んだものであった。(ノブ)
●日本軍細菌戦部隊
・日本陸軍軍医学校(東京)
・関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
・華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
・華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
・華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
・南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
・関東軍第100部隊(長春)
516部隊
731部隊
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。
化学兵器CAREみらい基金ブログ
大久野島(毒ガス島)
中国人戦争被害者の要求を支える会
中帰連
ハイナンネット
南京への道:史実を守る会
根津公子さんのページ
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
本人の受けた害
邱金夫(男、67歳)の証言
難民区で、私たち一緒に住まっていたのが22人で、毎日ご飯を作るのに、わらをたくさん燃やす必要がありました。わらが燃やしてなくなりそうになったので、みんなで相談して、難民区を出て珠江路の蓮華橋の辺にある三友印書館まで行って木を抱えて来ることにしました。そこで、私たち10何人かで三友印書館まで来て、鍵を開けて入って行き、木をしっかり束ねました。ちょうど抱えて行こうとした時、突然日本兵が2人来て、人を外へ追い立てたので、私は形勢悪しと見て、後ろの部屋の方へ隠れ、囲いの壁を河の脇へと飛び越えました。半時間ほどして、私はまた壁を這い上がり、3番目の内門まで行ったら、何の動きも無く、4番目の内門まで行って門を出たら、日本兵が2人門で私を待ってござって、日本兵の1人が銃剣を私の首に押し付け、東の方へ連行するので、私は死ぬんだなと思ったのですが、珠江飯店まで来た時に、私たちの外の10何人かがそこに立っているのを見ました。その時、老虎橋の小道から自動車がたくさん出て来て、車にいっぱい日本軍に護送された中国人が立っていました。私がちょっと数えてみたらみんなで26台でした。そしたら日本軍がまた3人捕まえて来たのですが、その中の1人で日本語の話せる人が日本兵に、その自動車の人たちは何をしに行くのか、と聞いたところ、日本兵は手で自分の首をたたいて、「スーラ、スーラティ」と言いました。それで解ったのですが、その人たちは集団虐殺されたのです。私たち捕まった者たちは、捕まって行って日本軍のクーリーににさせられたのです。
1938年の3月には、私たちもう難民区から珠江路の家に戻っていました。珠江路199号で、30歳余りの中国人が1人家の後ろに行って門をくくりつけていると、日本軍が3人門にぶつかって来て、門が突き開けられ、長い刀をさげた日本軍で1人先に入って来たのが、中国人にたきぎで頭ごなしにぴしゃりとやられて、地に倒れ、後ろの日本軍2人が突っ込んで行ってその中国人を刀で刺し殺しました。これは私がこの眼で見たのです。(邱金夫が自分で述べたもの)
※日本軍(皇軍)が南京でやったことは、虐殺・強姦・略奪・放火・クーリーとして使役する等々、とても「大東亜共栄圏の建設」とは名ばかりのものであったことがわかる。残虐なことが多かった。(ノブ)
●憲法9条
「Imagine9」【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
戦争で一番苦しむのは、いつも女たちです。戦争で女たちは、強姦され、殺され、難民となってきました。それだけでなく女たちは、男たちが戦場に行くことを支えることを強いられ、さらに男たちがいなくなった後の家族の生活も支えなければなりません。戦場では軍隊の「慰安婦」として、女たちは強制的に男たちの相手をさせられてきました。これは「性の奴隷制」であると世界の人々は気づき、このような制度を告発しています。
男が働き、戦う。女はそれを支える。昔から、このような考え方が正しいものだとされてきました。最近では日本の大臣が「女は子を生む機械だ」と発言して問題になりました。その背景には「女は子を生む機械だ。男は働き戦う機械だ」という考え方があったのではないでしょうか。第二次世界大戦下、日本の政府は、こういう考え方をほめたたえ、人々を戦争に駆り立ててきました。このような男女の役割の考え方と、軍国主義はつながっているのです。
「男は強く女は弱い」という偏見に基づいた、いわゆる「強さ」「勇敢さ」といった意識が、世界の武力を支えています。外からの脅威に対して、武力で対抗すれば「男らしく勇ましい」とほめられる一方、話し合おうとすれば「軟弱で女々しい」と非難されます。しかし、平和を追求することこそ、本当の勇気ではないでしょうか。私たちが、国々や人々どうしがともに生きる世界を望むならば、こうした「男らしさ、女らしさ」の価値観を疑ってかかり、「強さ」という考え方を転換する必要があります。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「ノブの日記」のタグをクリックお願いします!!