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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2009-09-12 08:23:44 | Weblog

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「日の丸」・「君が代」反対!!

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」

(昭和天皇の戦争責任を問う。)


●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。

 越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年渡満、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。

●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!


731部隊

『日の丸は紅い泪に』
(越定男著:教育史料出版会)より

Ⅳ 日本の旗は
※途中、一部を割愛させていただきます。
ノミが兵器に変わる時
外からの導火線で、部屋の中でペスト・ノミ弾を爆破させる。外で聞いているとドカッとこもった音が響く。内部でどんな騒ぎが起きているか全く分からない。
 そのまま1時間ほど待ち、隊員がマルタの引き出しにかかる。中へ入る隊員はそれこそ必死である。ペスト・ノミがうろついている死の部屋への侵入であるから。前もって裸になり、体にじかにグリセリンとクレゾールを混ぜた消毒液をていねいに塗り、その上にゴムのつなぎ服、ゴム長靴、ゴムの帽子をつけて入り込んでいく。
 ペスト・ノミ爆弾の工夫で、ほとんど入る前と変わらぬ元気なマルタがぞろぞろ引き出されてくる。近づいて子細に見ると、何も知らされないで部屋に閉じ込められたのだが、今は何もかも解ったらしく、恐怖で引きつった青白い顔で、しきりに体のあちこちをかいている。実験は成功したようである。
 30本のマルタは、直ちに徹底的に消毒され、そのまま研究室へ運び込まれていく。(明日に続く)

※生々しい実験の様子である。生体実験であるから、何度も書くが被験者はたまったものではない!!(ノブ)


日本軍細菌戦部隊

日本陸軍軍医学校(東京)
関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
関東軍第100部隊(長春)

   
516部隊

   
731部隊

  
  
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。


  
化学兵器CAREみらい基金ブログ

  
大久野島(毒ガス島)

  
中国人戦争被害者の要求を支える会

  
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南京への道:史実を守る会

  
根津公子さんのページ
  

南京大虐殺     

「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)

2、日本軍の狂暴な個人的虐殺

本人の受けた害

陳宝海(男、72歳)の証言
 1937年には、私は24歳でした。日本兵が入ってくる前は、家は南京居安里24号でした。毎日ゴム輪の人力車を牽(ひ)いて母子2人の生活を維持していました。
 その頃、日本軍がすぐにも入ってくると言うので、私たち江辺まで駆けて行き、難を逃れるのに長江を渡って行こうと思いました。けれども船が見つからなくて、逃げるに道無く、何人かの連れと一緒にしばらく上新河街の民家に身を寄せるしかありませんでした。
 日本軍が入ってきて2,3日したある日の朝、私たちの住んでいるところが日本軍の戸別捜査を受けました。日本軍が2人私の部屋に闖入して来て、1人1人頭を検査して、軍の帽子や鉄兜をかぶったことがあるかどうかを見、手をこすって、たこが出来ているかどうかを見ました。それから、私たち4人(張というのと李というのと王というのと、私)を一緒に五孔橋の麦打ち場まで連行しました。(多分私たちは兵隊ではなかったので、それで殺さなかったのでしょう)。そのところまで連行されたのが、午前9時か10時頃でしたが、すぐに灰色の国民党軍の軍服を着た負傷兵や捕虜たち10数人が縄で一緒に縛られているのが見え、日本軍が手にこん棒を持ってやたらとなぐり、半殺しになるほどに殴りつけて、それから、日本軍はわらをその人たちの体に被せ、石油をかけ、火をつけて活きたまま焼き殺しました。
 しばらくしたら、およそ午前11時頃に、日本軍は又私たちを連行して軍用の毛布をかけた日本兵の死体を1つ抱えに行かせ、上新河の河南大街まで運びました。
 日本軍に捕まったあの日から、私は雑用をやらされたり、クーリーをさせられたりで、しょっちゅう飢えに迫られたたかれるのを堪えていました。あの頃のことは、私は一生涯忘れられません。(秦景沢と陳玉蓮が記録)


※南京では一般庶民は中国国民党の兵隊ではなかったら、クーリーや雑用をさせられた。
そのような扱いを受けた人もいるが、もちろん逃げようとして殺された人や訳無く殺された人もいる。又、日本軍にクーリーや雑用に使われた後、殺された人もいた。(ノブ)


憲法9条

「Imagine9」【合同出版】より

ひとりひとりの安全を

大事にする世界


 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。
 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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