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「日の丸」・「君が代」反対!!
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任を問う。)
●731部隊とはどんな部隊であったのだろうか?元731部隊員の告白記を見ていこう。越 定男著(元関東軍第731部隊第3部本部付運輸班員)『日の丸は紅い泪(なみだ)に』(発行所:教育史料出版会)と言う本を見てみたいと思う。
越定男(こし・さだお)・・・1918年3月長野市に生まれる。
1934年工業高校機械科を卒業。1939年渡満、第642部隊に入隊。1941年第731部隊(石井部隊)に入隊。以後4年間細菌班をはじめ運輸班などに勤務。1945年8月敗戦により引き揚げ、9月長野に着く。戦後第731部隊員としての経歴を隠しながら苦難の日々を送り、現在に至る。
●私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
●731部隊
『日の丸は紅い泪に』(越定男著:教育史料出版会)より
Ⅲ ああ美しや
※途中、一部を割愛させていただきます。
石井隊長は軍神か
第731部隊へは、時の軍と政治の最高責任者であった東条英機が、数回にわたって訪れている。飛行場へ、よく石井隊長の副官である難波中佐と私とで、車で迎えに行ったものである。隊長の自信は、わざわざ東条大将までが訪ねて来るということでも、裏打ちされてもいたのであろう。そのせいか、石井隊長のしゃべり方は、東条英機にそっくりで、かの鶏ののどをのどをしめあげたような声や、節回しもまるっきり同じであった。ただ隊長は、無類の汗っかきで、演説する時などハンケチでよく顔の汗をふいていた。(明日に続く)
※東条英機が数回にわたり731部隊を訪れているということは、この施設の持つ意味の大きさを示している。政治と軍のトップである。それも戦争中である。もちろんハルピンと東京を結ぶ飛行ルートも事前にあったことが判明する。頻繁に東京の陸軍軍医学校と連絡を取っていたのだから当たり前だが。東条が731に行ったということはもちろん大元帥昭和天皇の意向でもあったろう。東条英機は天皇の信任のの厚い忠臣であった。天皇は東条によく御下問(質問)され、また東条も天皇にいろいろな上奏(意見を申し上げる)をしていたのだから、天皇も731部隊の開発している最新兵器の進捗状況を固唾を飲んで見守っていたに違いない!!
皇族であった竹田宮は関東軍の首席主計官となって731部隊の予算にかかわり、莫大な予算を天皇は承認し与えていた。天皇の731にかける思いは相当なものだったのだろう。その思いも当時のハーグ陸戦条約を無視していた。人体実験を行い、毒を使用しての兵器開発だった。
そこへ、東条へ派遣し、実際に計画が進んでいるのかを確かめさせた。その訪問も一度だけではなく数回あったとのこと。
戦況が日本にとって不利になるにつれ、天皇は最後の一撃を敵国に与えたかった。開発を急がせたのだろう!!その一撃を与えたいという思いにとらわれて、結果、降伏は延びてしまい、近衛上奏は無視、東京大空襲、全国の都市の空襲になり、沖縄での地上戦、広島・長崎の原爆・8月14日の大阪大空襲になって日本の本土の犠牲者を増大させた。もちろん戦地に赴いた兵士たちはその時、飢えと敵の猛烈な反撃の中「地獄の戦況」の中に置かれていた。(ノブ)
●日本軍細菌戦部隊
・日本陸軍軍医学校(東京)
・関東軍第731部隊(ハルピン)・・・関東軍各師団防疫給水部
・華北方面軍甲1855部隊(北京)・・・華北方面軍各師団防疫給水部
・華中方面軍栄1644部隊(南京)・・・華中方面軍各師団防疫給水部
・華南方面軍波8604部隊(広州)・・・華南方面軍各師団防疫給水部
・南方方面軍岡9420部隊(シンガポール)・・・南方方面軍各師団防疫給水部
・関東軍第100部隊(長春)
516部隊
731部隊
731部隊は天皇の直接命令によってつくられた。
化学兵器CAREみらい基金ブログ
大久野島(毒ガス島)
中国人戦争被害者の要求を支える会
中帰連
ハイナンネット
南京への道:史実を守る会
根津公子さんのページ
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
本人の受けた害
趙長栄(男、70歳)の証言
(昨日の続き)その時道端にトラックが2台停まっていて、20人余りが知っていると言ったので乗せて行きましたが、その20人余りの生死は分かりません。残った181人は、家族がいて息子だと認めたのや、夫だと認めたのは、みんな連れて帰れました。妻の兄は自分の母親に引き取られて帰りました。5時になろうとする頃に、私は一番前に立っていて、5歳になる息子がどうやって来られたのか分かりませんが、両手を上げて抱きついてきて、私も息子を抱き上げました。日本の将校がやって来て、「お前の子か」と聞くので、「そうです」と言うと、カイルーカイルー(開路開路=行ってよし、行ってよし)と将校が命じました。それから日本軍はそのほかの180人を
三条巷の河辺まで連行し一緒に河の中へ押し込み、そして機関銃で全部掃射しました。その中に楊さんという瓦職人と隣の張洪生父子2人と、同級の張世清などがいました。(秦景沢と丁亜慶が記録)
※将校は食糧のありかを聞いた後、20人余りを虐殺したのか、それとも解放されたのか?今までの例では、食糧のありかを確かめた後、殺されたケースがほとんどだ!!沢山の人が南京では機関銃によって殺された。(ノブ)
●憲法9条
「Imagine9」【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。
2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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