今日もいい日だ。

50才から僧侶を目指し、自分探しの旅を続けている凡夫の物語

いつでも心に留めておかなければならない話(2)

2020-02-23 10:13:19 | 真宗と他力

生活と仏教が重なる、そのことを親鸞聖人は、生活の中に「信心のしるし」が生まれる

 

 

信心のしるし(上) 本多靜芳(東京教区万行寺住職 アーユス仏教国際協力ネットワーク理事) 

[2015年1月1日号(第118号)]

 

 

・信楽峻麿先生との出遇い
信楽先生と初めて、お話しをする機会に恵まれたのは、1991年、日本佛教学会学術大会が開催された大正大学でした。

当日、私は、真宗教団における負の遺産である『真俗二諦論』の展開とその功罪、そして、本願寺派教団の基幹運動の展開とその問題点などの研究発表をしました。終了後、同会場におられた先生に、ご挨拶をし、また発表についてのご助言をお願いしました。先生は、「それで、結局、あなたは、どう生きようとしとるのか、ということじゃよ」というお言葉を頂いたのです。

いや、そういう言葉として私の記憶に残ってしまいました。もちろん、学会発表を済ませた安堵感や、数日来睡眠不足ぎみで朦朧としていた私の頭を、がつーんと撃たれたようで、私の「いのち」の目を覚ましてもらったのはいうまでもありません。



・素朴な疑問
私は、1957年、築地本願寺の隣の万行寺の一人息子として生まれました(現在、東京都東村山市に移転)。それなりに、親鸞聖人の浄土真宗、そして大乗仏教を学びました。大学生の頃、「南無の会・辻説法」、「築地本願寺・仏教文化講演会」、「在家仏教協会・講演会」などで仏教の話を聞くうち、親鸞聖人がいわれていることと、本願寺八代の蓮如上人のいわれていることは、言葉遣いは似ているけれど、本質的なところで違いがあるという素朴な疑問を抱きました。

そして、私がたどりついたのが、信楽峻麿先生の研究と学びの姿勢でした。先生の御近著『真宗学シリーズ①現代親鸞入門』(法蔵館)などから、この問題を次のように学んでいます。


・真俗二諦論
浄土真宗には、「真俗二諦論」という考え方があります。これは親鸞聖人の曾孫、覚如上人に始まり、蓮如上人へと続く伝統教学の系譜です。

真とは仏法のことです。俗とは世俗ということです。諦というのは原理という意味です。

 ┌真諦―仏法―心―信心(信)
 └俗諦―世俗―体―生活(行)

この論法では、私たちがこの人生を生きるにあたって、二つの原理があってよろしいといいます。それが現在も、本願寺派の伝統教学の根源になっています。

在家生活でいいかえますと、お仏壇の前に坐っているときは仏法の原理(仏の智慧)を立てろといいます。
ところが一歩仏壇の前を離れて台所に入ったら、世俗の原理(人間の理性)でよろしいというわけです。

仏壇の前に坐っているときは、お念仏を称え、世間は虚仮なものと見据える仏さまの教えに手を合わせています。しかし、一歩仏壇を離れて台所に戻ったら、仏法とはかけ離れた、世間の倫理(道徳)・論理(合理)に従えばよいというのです。

お寺にいる僧侶の立場でも同じです。本堂(儀礼空間)にいるときは、袈裟をつけ門徒さん向けの仏法中心の教えを説いているけれど、いざ、庫裏(生活空間)に帰ってきたら、仏法を離れた世俗の論理に立った生活に切り替えてよろしいということです。その場その場で使い分ければいいのですから大変、都合がよい話です。仏教の原理と世間の原理の二本立てということです。

果たしてこのような生き方は、親鸞聖人のお示しになったものでしょうか。その主著『顕浄土真実教行証文類』「総序」には、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」といわれます。

行とは念仏の生活、信とは真実の仏法。親鸞聖人は、これ以外のところでも、この二つをセットでお使いになっています。行と信は別のものではないのです。信心を離れた念仏はなく、念仏を離れた信心はありませんというのが親鸞聖人のお示しであったわけです。

 
・二元論から一元論へ
親鸞聖人の教えは、「真俗一貫論」です。一貫ということですから、仏法の原理と世俗の原理、信心と生活には一つのものが貫いているのです。これを「行信一如」の教学と言ったりもします。

行というのは生活です。信は仏法です。台所と仏壇は別の原理ではないのだということです。

生活と仏教が重なる、そのことを親鸞聖人は、生活の中に「信心のしるし」が生まれるでしょうとおっしゃっていると信楽先生は教えて下さいました。私は、このことを次のように受けとめています。

ちょうど味噌汁のお碗の中にワカメが入っていたら、味噌汁にワカメの香りや味やコクが、出るのと同じように、普段から仏法を大切にする生活をしていたならば、どこかその生活に、仏法らしい、真宗らしい香りや味が出るのだといえないでしょうか。

「信心のしるし」は親鸞聖人のお手紙に出てくる言葉です。人によってその「しるし」の表れ方は違いますので、親鸞聖人は決して、何々せよ、何々してはならないという「掟」を一つも示さなかった聖人であったと信楽先生から教えて頂きました。

私はその「しるし」として、「念仏者・九条の会」や「浄土真宗・反靖国連帯会議」、そして、「アーユス仏教国際協力ネットワーク」という仏教NGО団体に関わるような生き方が生まれました。
「しるし」ですから、一人ひとり違う形で表れるわけです。

世界の宗教には、多くの場合、掟のようなことをいう宗教があります。あなたがこの教えに生きるのだったら、この掟を守らなければいけない、と説く訳です。しかし親鸞聖人はそうではない説き方をしていらっしゃるのだ、ということを信楽先生から繰り返し教えて頂きました。

そのような教えを「一元論」だと学びました。二つの原理を使い分けるのが「二元論」の立場であるのに対して、二つの生活の中に一つのものが一貫しているというのが、「一元論」の立場です。


・あなたの「しるし」を示せ
その後も、先生のご著作や論文を読み続けましたが、時々、京都の「聴石の会」や、広島の「甘露の会」にも参加するようになりました。また、東京で「念仏者・九条の会」の東京大会を開催する折にも、ご出講いただき、直接お目にかかる機会が増えました。すると、お念仏の信心に生きる先生のお姿を通すことで、書物だけで学んでいる以上のことを教えて頂いたと感じます。

先生は、仏法が、生活の中に貫くことは、大変、厳しい、辛い出来事であるということを、「靴の中の石粒」というたとえで、教えてくれています。
靴の中の石粒は、時々、足の裏をつついて痛いことがある。先生にとって、親鸞聖人の教えは、丁度、そのようなものである。石粒は取り除いたら、もう痛くはないが、それを取り除いてはいけないと思う、と熱い心情で語ってくれました。

今、あの時、「それで、結局、あなたは、どう生きようとしとるのか」と語りかけて下さったのは、「あなたの、信心のしるしを示せ」と仰って下さっていたのでした。ようやく、その真意に肯けるようになれました。相手を選んで方向をつけてくれたのでした。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« いつでも心に留めておかなけ... | トップ | それ誤解です!シリーズ(1... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

真宗と他力」カテゴリの最新記事