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50才から僧侶を目指し、自分探しの旅を続けている凡夫の物語

それ誤解です!シリーズ(1) 「ご冥福をお祈りしています」は使わないでください。 「死後暗い世界に生きるあなたに幸せを」と言っているのと同じであり大変失礼な言い方です。

2020-02-26 13:59:59 | それ誤解です!

それ誤解です!シリーズ(1) 

 

「ご冥福をお祈りしています」は使わないでください。

あなたが「冥福を祈る」と亡くなった方に言うことは  「死後暗い世界に生きるあなたに幸せを」と言っているのと同じであり大変失礼な言い方です。

この「冥福」と言う言葉は神道から来ており、仏教やキリスト教では

「冥福」と言う言葉は使いません。

俺は無宗教だからと言う方も上記の理由により大変失礼な言い方になります。

 

また、日本国の首相が

「ご冥福をお祈りし、ご家族の皆様にはお悔やみを申し上げます。」と言うことは

日本国憲法に違反しております。

特定の宗教の用語を使用することは「信教の自由」に反しているからです。公然と憲法違反をしています。

このような用語の使用は小さいことと思われるでしょうが、今の政府や政治家の言葉が軽くなってくる要因の一つになっていると思います。もちろん嘘もいけません。

 

さて

(続く)

 

 


よく訃報を聞いた方々が

「ご冥福をお祈りしています」などとSNSに

書き込んでいるのを見ることがあります。いやほとんどの人が書き込んでいます。

これは何の影響か?

「冥」という字のもつイメージと

「福」という意味が死者に対して敬意を表しているようなイメージがあるのでしょうか?

 

ほんといつからか知識者にまで誤用が広がっています。


「冥福」

ウィキペディアに、仏教でも使うなどと書いてありますが、大間違いです。

ウィキペディアのタブーの欄に書いてあることが一部正答、あっていると思います。

ちなみにウィキペディアでは

死者が行く先である冥界での幸福を冥福と言う。あるいは、その幸福を祈るために行う仏事も冥福という[1][2]。死者の幸福、仏事に関しては、『永平清規』・坤巻・知事清規「冥福を修むに以つて、亡者を薦す(修冥福以薦亡者)」の一文。『魏書列伝』、崔挺「八関斎を起こし、冥福を追奉す」の一文。 『孝明天皇紀』「勅して仏事を知恩院に修し彼我戦死者の冥福を薦す」の一文などが挙げられる。

しかし、異なる意味で冥福という言葉が使われる場合もあった。第1に、隠れた(例えば、前世での)徳行を起因とする幸福、隠功も冥福と呼ばれることがあった[2]。『三教指帰』・下巻の「毎に国家のために、先ず冥福を廻らす(毎為国家先廻冥福)」の一文など。

第2に、理解しがたい何かによってもたらされる幸福を冥福と呼ぶこともあった[2]。『三国伝記』 (3・12)「彼人さては如意輪観音の国土の災患を廃し、村人の冥福を示し給へるなると貫く念ひ奉り」の一文。

 

と書かれていますが引用の書籍は仏教経典ではございません。

 

 

事典によっては、仏や菩薩による加護などを、内々に受けている冥利(冥益、冥応、冥鑑、冥助)を、冥福と関連するものと位置づけている[3]

上記は冥の意は、隠れている、見えないと言う意味です。暗い世界やあの世や地獄を指す言葉ではない。

 

 

タブー[編集]

弔意を表すことばとして、「冥福を祈る」「ご冥福をお祈りします」などが一般には用いられている。しかしながら「冥」という字は、冥利のように「うかがい知れない何か」という意味であるが、日が暮れて非常に暗くなったこと、ものがはっきりと見えなくなったこと、瞑(目をつぶる)とよく似ていることから切ない死後の世界を連想させるため、避けるべきとする考えもある。

いくつかの宗教、あるいは宗派では、「冥福」の必要は無いとされている。例えば、キリスト教のうちプロテスタントの一部の教派は、死後確実に神のいる天国に行くと考えている。またこれらの教派ではカトリックでいう煉獄や、陰府、冥府、古聖所など呼ばれた死後の世界は想定していない。仏教の一宗派である浄土真宗では、阿弥陀如来の他力本願により極楽浄土へと導かれるため不要とされている。あるいは、信心不足や死者の迷いを指摘する言葉であり不適切とする考えがある。これらに対する無難な言葉として「心から哀悼の意を表します」などがあげられる。

 

仏教では「生も死も自分自身である」と考えています。「死と生」を分けて考えることはない。

あなたが「冥福を祈る」と亡くなった方に言うことは

「死後暗い世界に生きるあなたに幸せを」と言っているのと同じであり大変失礼な言い方です。

 



 

そもそも

神道、道教で使われいたのが

冥と言う死後の世界。黄泉の国。

日本書紀にも冥界(黄泉の国)に死んだ妻がいるので、会いに行ったらバケモノ髑髏と変わり果てていたと言う記述もありますね。

ウィキペディアより

イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったという。

そこで変わり果てたイザナミの姿を目撃したイザナギが、黄泉の国から逃げ帰る場面が以下のように表現されている。

逃來猶追到黄泉比良坂之坂本時[3]
(訳)逃げ来るを、猶ほ追ひて、黄泉比良坂の坂本に至りし時  

口語訳では「(イザナギが)逃げるのを、(イザナミは)まだ追いかけて、(イザナギが)黄泉比良坂の坂本に着いたとき」となる。この時、追いすがる妻やその手下の黄泉の醜女(しこめ)達を退けるため、黄泉路をふさいだ大石を、道反の大神(ちがえしのおおかみ)といった。道反の大神は岐神として、日本各地に祀られている。今私にしてくれたように)困った人を助けておくれ」と命じられた。

 

 


 

 

ではどのように言えば良いのか?

 

心からお悔やみ申し上げます。

が正しいでしょう。

 

哀悼の意を表します。ですと普段自分の使わない言葉になりますので少しよそよそしい感じがするかもしれません。

 

あなたのそれ誤解です!

 


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