墓石クリーニングの女

お墓と向き合うことで『大切なもの』を日々感じながら、あつく生きる女…それが、アタシ。

秋田~山形への旅(後半:たかちゃん編)

2014年06月08日 | つぶやき
たかちゃんとは、叔母のこと。亡き母の妹だ。

ひなちゃんを大石田の駅まで送って、またアタシは秋田へ。

必死に掃除や草刈りをして、仕事もこなして、一息つく間もなく叔母と叔父がやってきた。

お二人の目的は墓参り。
姉だけしかいない時は日中誰も家にいないため、なかなかきづらいらしく、アタシが長々と秋田にいるのならばチャンスとやってきたのだ。
府中在住なので、アタシが多磨霊園に仕事の時、しょっちゅうお邪魔してランチをゴチになっている。
72歳になる叔父が、府中から自分で車を走らせて秋田に来るのも容易なことではないので、この先こうして秋田で墓参りをするのも難しくなるのだろう。

アタシの母は5人兄弟で、末っ子の7つ離れた妹をめちゃくちゃ可愛がったそうだ。
山形の田舎ではあまり出会えないフランス人形のような女の子だった妹を、連れて歩くのが大好きだった母。
ちなみに母は、ちんちくりんの田舎娘だった。
でも、忙しい親の代わりに兄弟の面倒をよくみる、いいお姉さんだったらしい。

母が亡くなる時、余命ひと月と聞いたたかちゃんは、秋田に手伝いに来てくれた。
アタシが24歳。仕事を辞めて看病をしていたけど、24時間付き添ってあげられない。
で、昼間はたかちゃんが付き添い、夜はアタシが付き添った。

そして、母の最後の時も一緒に見送ってくれた。

人の死ぬ時というのは、実は、亡くなってからが看病で心身ともに疲れきった家族に追い打ちを掛けるように大変なのだ。

以前あきねぇ便りにも書いたが、父が泣いてお酒ばかり飲んでいるので役に立たず、姉とアタシは悲しむ間もないくらい走り回った。
周りの親戚がお葬式のやり方に口を出し、それぞれ勝手なことを言うもんだから、パニック状態。
昔、お葬式という映画を見たが、あれはとってもリアルな映画だと思う。
誰かビシッとしきってくれないものかと情けなくなった。

でも、その時たかちゃんが「母親亡くしたばかりの娘が悲しんでる暇もないなんて、可哀想だ。」と気を使ってくれた。

その後、アタシとたかちゃんは、山形の祖父母も一緒に看取り、父がなくなった時も真っ先に来てくれた。

そんな叔母ももう70歳になろうとしている。

今回、一緒に秋田の墓参りをし、その後山形の墓参りをし、いろんな人に会いに行ったのは、とっても貴重な時間となった。




一日目、新潟石打に宿泊し、朝からワラビ採りをして日本海沿いに600㌔も走ってきて4時には秋田に到着した。
叔父さんのタフさには脱帽だ。
夕食は秋田に住んでいる92歳の祖父の義妹と一緒に寿司屋へ。

二日目、まずはお約束、秋田市民市場で買い出し。その後、男鹿の船川にある両親のお墓にお墓参り。
92歳のお婆ちゃんも一緒にお寺の階段や坂を上がりお参りしてくれた。

その後は、寒風山~入道崎~真山神社なまはげ伝承館とドライブし、帰宅。
海がめちゃくちゃ綺麗だった~~~

途中の崖から下を見ると、地平線が地球が丸いことを教えてくれる


海水浴場も水が透明でとてもきれい。


このなまはげは、JRのポスターに使われている。


なまはげ伝承館では大晦日の伝統行事の様子を再現している。今も続いている行事だ。


なまはげに「飲み過ぎてね~が~」と言われた叔父さん。


お昼はうに丼。



三日目、山形のお墓参りに。
ぶ~様ともこれでお別れだ。



嫌な予感がするせいか、食事に集中できず、変な格好・・・



楯岡に行く途中、再びしょうじでお蕎麦をいただく。アタシはそばがきをくるみだれで。初めて食べたけど、美味い!



母の実家に到着。大好きな庭。何回もこの池に落ちた。



大好きだったこの木は今も変わらない。



親戚の家も半端ない庭。



この銀杏も、蔵座敷のような家も大好き。



どこも懐かしい景色だ。

子供の頃、夏休みは毎年ココで過ごした。
裏山から探検に行って、わけわからないとこに出ても携帯とかあるわけじゃないので、帰省本能で帰ってきた。
いつもいつも皆んなに心配をかけるやんちゃな女の子だったが、もっと凄い叔父や叔母の前歴があったので、アタシは可愛いもんだったと思う。

トトロと変わらない世界がそこにあった。
今みたいに、あれダメこれダメなんて誰も言わなかった。
失敗しながら、自分で遊びの中から色んな事を学んだ。

今回、お会いできた人はだいぶ少なくなっていた。
お焼香をさせていただいた人のほうが多い。

祖父の兄弟は8人。
現在残っているのは妹が一人だけ。97歳だ。
でも、連れ合いが残っているのが3人。94歳、92歳、88歳。
みんな、とてもしっかりしていた。

その子供達である叔母さんの従兄弟たちもほとんどが70代。

そしてその子供になるのがアタシ達で、50代~30代。

一緒に池のザリガニを釣った連中もそんな年なんだ。


たかちゃんは、もう最後かもと言いながら沢山の人を訪ね歩いた。

どこへ行ってもたかちゃんたかちゃんと笑顔で迎えてくれた。
そしてアタシはよしこちゃんの娘の明子ちゃんでないの~~~と言われた。
とても温かく、懐かしんで迎えてくれた。
みんな見たことのある人だが、どんな関係なのかはこの歳になるまで理解していない人も多かった。

例えば、母の実家の蔵に住んでいたオバさん。
祖父の弟が戦争から帰ってきたので、横浜まで奥さんと迎えに行った。が、あまりに衰弱していたのでそこで倒れ亡くなってしまった。
子供を3人抱え困っている弟の奥さんを、祖父は実家に住まわせ面倒みたという。
その時のオバさんが94歳になり、息子さん達は中学校の校長先生をしていたり、一流企業に勤めたりしている。
祖父の最後の時にはよくお見舞いに来てくれてた。
たかちゃんは、そのことに感謝し、今でも手土産を持って顔を出している。

結局、偉大な祖父が沢山の人に手を差し伸べ、それを感謝して祖父に恩返しをして、それを感謝してたかちゃんがお返しをして・・・
感謝の気持ち、恩返しが、代々続いているのだ。

なんて素敵なことだろう。

人間の付き合いって、こうやって成り立っているんじゃないかな。

結局は、よくも悪くも、自分のしたことが自分や子供達や孫達に帰ってくるんじゃないかな。

だからこそ、人に優しく、助けあって生きていきたいもんだ。



このご縁も段々薄れて、こんな祖父の功績を語り継ぐ人もいなくなる。

でも、お墓はそこにある。

息子達にはしっかりとアタシの祖父の話を聞かせ、そのお墓に手を合わせてくれるよう伝えていこう。

お墓とは、そうやって亡くなった人の功績を語り継ぎ学ぶ場所であり、自分の軌跡を知ることができる場所なのだろう。



祖父が亡くなって23年経った今、また祖父から学んだ。

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