父が、家の中でつまずいた。
その時、足の小指をぶつけ血が出たので、自分で消毒して絆創膏を貼っていた。
数日後、その小さな傷が化膿していることに気がついた姉が、なかなか治らないね~と話しながらガーゼを交換してあげた。
何日経過しただろうか…次にその傷跡を見た時には、もうその小指はどす黒く変色し、腐り始めていた。
慌てて病院へ電話して診察をしていただいたのだが、空気に触れた患部は瞬く間に変色していき、腐った肉の匂いを強烈に放っていた。
緊急入院をし、点滴をガンガン投与したが、患部からの毒素が全身にまわり、大変危険な状態へ陥った。
アタシは嫁ぎ先の奈良から駆けつけたが、父は意識が朦朧としていて、話しかけてもろれつが回っていなかった。
熱が42度。カラダを冷やしても、40度まで下げるのがやっと。
足は包帯でぐるぐる巻きになっていてどんな状態かさっぱりわからなかったが、包帯交換時の臭いがすごすぎて、かなり腐っていてもう使いものにならないのだろうと感じた。
「足を切らないと、命に関わります。熱が高いため体力が低下しており、熱を下げようとしましたが、これ以上待てません。直ぐ切りましょう。」先生が決断した。
何も知らされず、意識を取り戻した父は自分の足が膝から下から無くなっていることに気がついた。
母を亡くしてから不摂生を続け、食事制限もお酒の制限もせず、大好きだったゴルフすら行かなくなり、「いつ死んでもいいんだ。」とやりたい放題していた父は、あっという間に糖尿病が悪化した。
それだけではなく、高血圧による軽い脳梗塞も起き、薬を飲んでいた。
本来指先が腐っていく時は、尋常じゃない痛みを伴うはずだが、父は指先の感覚が無くなっていたようだ。
全ては自業自得なのだ。
要介護認定を受けたので、介護用ベットやポータブルトイレを準備し、家中に手すりをつけることで車椅子生活ができるはずだった。
しかし、前向きだったのは数日間だけ。
直ぐに、父は動くのをやめた。
姉は仕事をしていて、アタシは奈良で子育て中なのだから、父の世話をするのはお昼に来てくれるヘルパーさんになる。
寝たきりの父は、ヘルパーさんの前ではいい人を演じるが、姉にはワガママや文句を言いたい放題で、「仕事なんて辞めて家にいればいい!」と言い続けた。
独身の姉が仕事を辞めたら、その先どうするんだと思ったので、アタシは絶対何を言われても辞めてはいけないと話した。
家の中が荒んでいた。
姉も疲れきっており、アタシも小さい息子達を連れて掃除や家事の手伝いに定期的に通い続けたが、父と同じ部屋にいることが苦痛で、子供に苛つく顔に耐えられなかった。
家族の中に病人がいるのは本当に辛いことだ。
しかし、人は必ず年をとる。
ぴんぴんコロリが理想だが、そう上手く望んだようになるとは限らない。
健康に気を使っていても、老化は防ぐことはできない。
認知症など、誰かの世話にならなければならない状態になるかもしれない。
そんな時、家族だって自分の生活があるのだから、24時間面倒を見てもらえるとが限らないし、誰かが犠牲になってはいけない。
超高齢化社会の中で、これからどうなっていくのだろう。
アタシはどうするのだろう。
そんな生活が数年続き、ある日、父の体に癌がみつかった。
体力があるから、手術して切除することになった。
手術の経過は良好であったが、切った次の日には「体を動かしなさい。」と無理やりリハビリをさせられ、あれやこれやと看護婦に怒られる入院生活に、父は苛ついてた。
アタシが行く度に「性格の悪い看護婦がいる。」と愚痴った。
父もワガママだが、その看護婦はものすごい口調で父を叱ったり、トイレの世話が雑だったり、投げやりな態度だったり…隣のベットの方が目に余る態度ですよと報告してくれた。
そのうち父は誰とも口を利かなくなり、姉の言うことも耳に入らなくなった。
アタシが久しぶりに訪ねて行くと、視点が遭わない。
話の辻褄も合わない。
心を閉ざし始めていることに気が付き、主治医に「担当看護婦を変えて下さい!」と訴えた。
しかし、主治医が言ったことは、「看護婦の言うことをきけないなら直ぐ退院して下さい。私たちにできる事は何もありません。」だった。
姉が興奮し電話をしてきた。
1週間で出てくれと医者に言われたが、今の父は自宅で自分が介護できる状態ではない。
このままだと、一人で何もできない状態の父を自宅に連れ帰って、父も自分も潰れてしまう。
事実、自力で排便排尿もできず、床ずれができ始め、食事もままならない患者なのだ。
しかも、鬱の症状まで出始めている。
直ぐ飛んでいって、受け入れ先を探した。
しかし、どこも1週間以内に転院できるところなんてないし、特別措置には医者の推薦状のようなものが必要になる。
すると、ある施設の館長さんから連絡が。
「明日にでも、うちの施設に移って下さい。専用の車で迎えに行かせます。」とのこと。
なんて有難いことか。こんな病院から一刻も早く出してあげたいと思っていたので、直ぐに転院した。
そこで待っていた方は、父を「部長さん、お久しぶりです。」と言った。
銀行で野球部の部長をしていた時の後輩だったのだ。
現在は銀行を退職し、その施設に勤めているそうで、入居希望者リストから父の名前を見つけ直ぐに連絡して下さったそうだ。
久しぶりに会う後輩と話した時の父は、昔の父だった。
顔が急に変わり、「おや、久し振りだね~世話になるよ。」と、珍しく会話をした。
清潔な個室に入れていただき、スタッフさんもとても親切で、父に無理強いもせずに温かく対応してくれた。
父は日に日に明るくなり、身なりも気にするようになり、嫌味も言えるようになっていった。
それというのも、館長さんが度々顔を見せてくれ昔話をしたり、スタッフさんが明るく話しかけてくれたからだ。
介護によってこんなにも変わるのか…病院を出るのがもう少し遅れたら…と思うと、このご縁に感謝せずにはいられなかった。
転院して2週間経ち、アタシが父の好きなサワモダシ(きのこ)の味噌汁を差し入れると、「うまいうまい!明子の味は母さんの味だ!」と喜んで食べてくれた。
帰り際、「次にお見舞いに来るのは一月後になるよ」というと、「そんなに待てないよ。」と言う。
「わかった~なるべく早く来るから。」と言って部屋を出ようとした。
「明子、ちょっとけ!おめ、なんだか綺麗になったんでね~が?」と手を握ってきた。
そんな言葉をかけられたことも、手を握られたこともないから、「どうしたの?変なの。もう行くよ。飛行機乗り遅れちゃう。」と別れた。
その二日後の早朝、電話がなった。
嫌な予感がした。
「お父さん、死んでた。」
姉が言った。
あれが、父との最後の別れだった。
あれが、アタシへの精一杯の愛情表現だったんだ。
その時、足の小指をぶつけ血が出たので、自分で消毒して絆創膏を貼っていた。
数日後、その小さな傷が化膿していることに気がついた姉が、なかなか治らないね~と話しながらガーゼを交換してあげた。
何日経過しただろうか…次にその傷跡を見た時には、もうその小指はどす黒く変色し、腐り始めていた。
慌てて病院へ電話して診察をしていただいたのだが、空気に触れた患部は瞬く間に変色していき、腐った肉の匂いを強烈に放っていた。
緊急入院をし、点滴をガンガン投与したが、患部からの毒素が全身にまわり、大変危険な状態へ陥った。
アタシは嫁ぎ先の奈良から駆けつけたが、父は意識が朦朧としていて、話しかけてもろれつが回っていなかった。
熱が42度。カラダを冷やしても、40度まで下げるのがやっと。
足は包帯でぐるぐる巻きになっていてどんな状態かさっぱりわからなかったが、包帯交換時の臭いがすごすぎて、かなり腐っていてもう使いものにならないのだろうと感じた。
「足を切らないと、命に関わります。熱が高いため体力が低下しており、熱を下げようとしましたが、これ以上待てません。直ぐ切りましょう。」先生が決断した。
何も知らされず、意識を取り戻した父は自分の足が膝から下から無くなっていることに気がついた。
母を亡くしてから不摂生を続け、食事制限もお酒の制限もせず、大好きだったゴルフすら行かなくなり、「いつ死んでもいいんだ。」とやりたい放題していた父は、あっという間に糖尿病が悪化した。
それだけではなく、高血圧による軽い脳梗塞も起き、薬を飲んでいた。
本来指先が腐っていく時は、尋常じゃない痛みを伴うはずだが、父は指先の感覚が無くなっていたようだ。
全ては自業自得なのだ。
要介護認定を受けたので、介護用ベットやポータブルトイレを準備し、家中に手すりをつけることで車椅子生活ができるはずだった。
しかし、前向きだったのは数日間だけ。
直ぐに、父は動くのをやめた。
姉は仕事をしていて、アタシは奈良で子育て中なのだから、父の世話をするのはお昼に来てくれるヘルパーさんになる。
寝たきりの父は、ヘルパーさんの前ではいい人を演じるが、姉にはワガママや文句を言いたい放題で、「仕事なんて辞めて家にいればいい!」と言い続けた。
独身の姉が仕事を辞めたら、その先どうするんだと思ったので、アタシは絶対何を言われても辞めてはいけないと話した。
家の中が荒んでいた。
姉も疲れきっており、アタシも小さい息子達を連れて掃除や家事の手伝いに定期的に通い続けたが、父と同じ部屋にいることが苦痛で、子供に苛つく顔に耐えられなかった。
家族の中に病人がいるのは本当に辛いことだ。
しかし、人は必ず年をとる。
ぴんぴんコロリが理想だが、そう上手く望んだようになるとは限らない。
健康に気を使っていても、老化は防ぐことはできない。
認知症など、誰かの世話にならなければならない状態になるかもしれない。
そんな時、家族だって自分の生活があるのだから、24時間面倒を見てもらえるとが限らないし、誰かが犠牲になってはいけない。
超高齢化社会の中で、これからどうなっていくのだろう。
アタシはどうするのだろう。
そんな生活が数年続き、ある日、父の体に癌がみつかった。
体力があるから、手術して切除することになった。
手術の経過は良好であったが、切った次の日には「体を動かしなさい。」と無理やりリハビリをさせられ、あれやこれやと看護婦に怒られる入院生活に、父は苛ついてた。
アタシが行く度に「性格の悪い看護婦がいる。」と愚痴った。
父もワガママだが、その看護婦はものすごい口調で父を叱ったり、トイレの世話が雑だったり、投げやりな態度だったり…隣のベットの方が目に余る態度ですよと報告してくれた。
そのうち父は誰とも口を利かなくなり、姉の言うことも耳に入らなくなった。
アタシが久しぶりに訪ねて行くと、視点が遭わない。
話の辻褄も合わない。
心を閉ざし始めていることに気が付き、主治医に「担当看護婦を変えて下さい!」と訴えた。
しかし、主治医が言ったことは、「看護婦の言うことをきけないなら直ぐ退院して下さい。私たちにできる事は何もありません。」だった。
姉が興奮し電話をしてきた。
1週間で出てくれと医者に言われたが、今の父は自宅で自分が介護できる状態ではない。
このままだと、一人で何もできない状態の父を自宅に連れ帰って、父も自分も潰れてしまう。
事実、自力で排便排尿もできず、床ずれができ始め、食事もままならない患者なのだ。
しかも、鬱の症状まで出始めている。
直ぐ飛んでいって、受け入れ先を探した。
しかし、どこも1週間以内に転院できるところなんてないし、特別措置には医者の推薦状のようなものが必要になる。
すると、ある施設の館長さんから連絡が。
「明日にでも、うちの施設に移って下さい。専用の車で迎えに行かせます。」とのこと。
なんて有難いことか。こんな病院から一刻も早く出してあげたいと思っていたので、直ぐに転院した。
そこで待っていた方は、父を「部長さん、お久しぶりです。」と言った。
銀行で野球部の部長をしていた時の後輩だったのだ。
現在は銀行を退職し、その施設に勤めているそうで、入居希望者リストから父の名前を見つけ直ぐに連絡して下さったそうだ。
久しぶりに会う後輩と話した時の父は、昔の父だった。
顔が急に変わり、「おや、久し振りだね~世話になるよ。」と、珍しく会話をした。
清潔な個室に入れていただき、スタッフさんもとても親切で、父に無理強いもせずに温かく対応してくれた。
父は日に日に明るくなり、身なりも気にするようになり、嫌味も言えるようになっていった。
それというのも、館長さんが度々顔を見せてくれ昔話をしたり、スタッフさんが明るく話しかけてくれたからだ。
介護によってこんなにも変わるのか…病院を出るのがもう少し遅れたら…と思うと、このご縁に感謝せずにはいられなかった。
転院して2週間経ち、アタシが父の好きなサワモダシ(きのこ)の味噌汁を差し入れると、「うまいうまい!明子の味は母さんの味だ!」と喜んで食べてくれた。
帰り際、「次にお見舞いに来るのは一月後になるよ」というと、「そんなに待てないよ。」と言う。
「わかった~なるべく早く来るから。」と言って部屋を出ようとした。
「明子、ちょっとけ!おめ、なんだか綺麗になったんでね~が?」と手を握ってきた。
そんな言葉をかけられたことも、手を握られたこともないから、「どうしたの?変なの。もう行くよ。飛行機乗り遅れちゃう。」と別れた。
その二日後の早朝、電話がなった。
嫌な予感がした。
「お父さん、死んでた。」
姉が言った。
あれが、父との最後の別れだった。
あれが、アタシへの精一杯の愛情表現だったんだ。
お姉さんもお疲れだったでしょうが、あれから、ぽっかり穴が開いてしまった状態じゃないでしょうか?
親父さんに振り回されたけど、それも人生なんですよね。
貴女のお陰で、最後は、昔話で華を咲かせ、安らかに次の世界に行かれたでしょう。そして、お母さんと逢えたら、詫びをいれてるかも?
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親父さんの、ご冥福をお祈り申しあげます。